近江国高島郡三尾とは何処なのか?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 20:46 UTC 版)
「継体天皇」の記事における「近江国高島郡三尾とは何処なのか?」の解説
古代において、高島郡三尾(『上宮記』における「弥乎国(みおのくに)」)を冠するものに、古代北陸道にあった三尾駅・三尾郷・三尾城・三尾崎・三尾神・三尾川・三尾山等が知られている。 『万葉集』に「大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ」とあり、ここから高島のうちに三尾があり、三尾のうちに勝野があるということがわかる。『日本書紀』の壬申の乱 (672年)の記載には「三尾城」の名がみえ、『続日本紀』の恵美押勝の乱(藤原仲麻呂)(764年)の際には「高嶋郡三尾埼」、平安時代の長徳2(996)年、越前へ向かう父藤原為時に同行した紫式部が高島を通った時に詠んだ歌で「三尾の海に 網引く民の てまもなく 立居につけて 都恋しも」とあり、これらの三尾とは、白鬚神社が鎮座する明神崎付近と考えられている。 『続日本紀』延暦3(784)年8月条に「近江国高嶋郡三尾神」を従五位下に叙したという記事があり、この「三尾神」は『延喜式』の「水尾神社」とみられ、名神祭や月次祭、新嘗祭に預かる神社であるが、現在の高島市拝戸の水尾神社に比定されている。 弘安3(1280)年の『比良荘絵図』には、「三尾川」が描かれており、「三尾川」とは安曇川の南部を流れる「鴨川」に比定されている。 このようなことから三尾の範囲は、北は遺称地名が残る高島市安曇川町三尾里付近から、南は高島市最南部の明神崎付近までの高島市内の安曇川の南部全域を指すと考えられる。
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