輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)
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「アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所」の記事における「輝かしい歴史のなかの汚点 (ICRC)」の解説
スイス人技術者などは戦時中もドイツ国内を自由に移動でき、強制収容所内の細部についてはさておき、1938年頃より後にもたらされたドイツに関する情報は赤十字国際委員会(ICRC)が注視せざるを得ないものであった。各強制収容所に数多くの援助物資を送り続けるが、ナチスの非人道的な行いの調査と実効的な手段による行動については消極的であった。理由として、本部の依拠するスイスと当事国ドイツが国境を接し、産業でも強く結びついていたことにより、永世中立国と言えどもナチスの動向には敏感にならざるを得ない状況であったこと、赤十字の活動には原則当事国の承諾が必要なため表立った非難は状況をさらに困難にすると考えられていたこと、さらにジュネーブ条約の条項に一般市民(文民)保護に関する規定がなかったことなどが挙げられる。特にスイス国益に関する問題は大きな足かせであった。1942年当時、ICRC委員でもあったスイス大統領フィリップ・エッターは、断固たる態度を示すことに反対し、ICRC委員長カール・ヤーコプ・ブルクハルトは、ファシズムよりも共産主義拡大を恐れ、その防波堤となるナチスと国際社会の良き仲介者であろうとした(ブルクハルトがドイツ系スイス人であったことも関係)。このような状況下で強制収容所に送り込まれた視察員は、意図して作られた平和的な光景に惑わされることになる。ICRCが実効的手段を執るようになったのは、ドイツの敗色が濃厚になり、いよいよ残りすべての被収容者を処刑しはじめようとした1945年から。主だった強制収容所にICRC委員を"常駐"させ監視できるようになったことで、それまで送り続けていた援助物資が被収容者に確実に届きはじめ、併せて消えかけた命も救われた。 1995年、ICRC委員長コルネリオ・ソマルガは、アウシュヴィッツ解放50年周年式典に出席するにあたり、当時の対応の誤りを認め遺憾の意を表明した。
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