超新星と革命児との最終対決
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「増田章」の記事における「超新星と革命児との最終対決」の解説
1992年(平成4年)、増田は第24回オープントーナメント全日本空手道選手権大会に参戦していた。トレーナーの岡田稔は増田から「このままでは終われない」と聞かされながら、練習のサポートをしてきていた。初日は無難に勝ち進み、2日目の3回戦でまだ20歳だった数見肇と対戦。この頃の数見は同年FTV杯東北大会で優勝をしてはいたものの、全く注目されておらず。増田もノーマークだった。ところが延長2回までもつれ込むほどの激戦となる。増田は数見に突きを効かせていたが 、それ以外では互角の戦いを展開し、試割り判定で増田に勝つ大金星を上げた。増田は「こんなに強いんだったら、もっと研究をしておくべきだった」と悔恨の情をあらわした。数見はその勢いで他の歴代オープントーナメント全世界空手道選手権大会代表を撃破していった。4回戦では三明広幸、準々決勝で石井豊、準決勝で七戸康博らを破り、数見は決勝迄進出した。この活躍で数見は「超新星」と呼ばれた。 その後、増田は練習は続けていたのだが、選手権大会直前にケガをしたりしたので、第25・26回全日本選手権には無理せず欠場し、第6回全世界選手権出場を目論んでいた。しかし、極真会館は大山倍達の死後、わずか1年で組織が分裂する騒動が勃発する。増田は大山派(大山智弥子館長)が主催する全世界選手権に推薦で出場した。準々決勝に進み、塚本徳臣と対戦。再延長の末、判定4対0で敗退した。「完敗です」と増田は一言だけだった。最後のチャンスに賭けていた増田だが、一連の分裂騒動で政治活動もしていたので、コンディションを整える事は容易な事ではなかった。塚本は183センチメートル、95キログラムの体格ながら軽快なフットワークを使い、突き・下段のオーソドックスな組手に入る前にかかと落とし・ステップバックして増田が前に出るとカウンターで放つ跳び膝蹴りを出していたので接近する事ができず、自分の最も得意とするパターンに入れない増田であった。延長1回では右前蹴りを顔面にクリーンヒットされ、延長2回には左中段回し蹴りの蹴り合いに負け、終盤には跳び膝蹴りを食う増田。もし、全盛期の増田であったら、塚本を詰める事もできただろう。全盛期でなくても、政治活動に関わらず充分な練習ができていれば、また違った展開になっていたかもしれない。塚本はこの勢いを持続し、準決勝の谷川光を前蹴りと中段突きで、決勝の鈴木国博を左前蹴りと右中段振り打ちでそれぞれ合わせ一本勝ちで優勝を収めた。そして塚本も「革命児」と呼ばれた。 奇しくも増田は、後に松井派の数見、大山派の塚本という団体を代表するエースとなった両選手と戦い、世代交代という形で試合場を去っていった。
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