賛育会の創設
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賛育会は1888年5月13日に結成された東京帝国大学学生基督教青年会(東大YMCA)の会員有志によって、1918年に創設された。当時の医療は庶民には手の届かないものであり、東大YMCAは庶民に医療を提供するために、まず1917年に無料診療を行う診療所(青年会医院)を設置した。苦情等で医院の継続が困難になると、当時の東大YMCA理事長で東京帝国大学法科大学教授の吉野作造の指導の下、下層の母子に医療を提供することを目的として妊婦及び乳児の相談所を開くことになった。吉野は病没するまで夫妻で賛育会の活動に参加し、指導的役割を果たした。会については「婦人と小児の保護、保健、救療」を目的として、1918年3月16日に第1回総会を開き、設立を決定したとされるが、実際のところは定かではないようである。会の名称は、初代理事長である木下正中(元東京帝国大学医科大学産科学婦人科学講座教授)が『中庸』の第21章にある「天地ノ化育ヲ賛ク(てんちのかいくをたすく、万物の発育を助けるの意)」からつけた。 賛育会は1918年4月1日に本所区太平町一丁目27番地の古工場を借りて、「賛育会妊婦乳児相談所」を開設した。これが賛育会病院のはじまりとなった。翌1919年8月1日に本所区柳島梅森町55番地(現在の墨田区太平三丁目20番2号)に相談所を移転する形で本所産院が開設された。これは「日本において庶民を対象とする産院の最初」だったという。医務は木下や河田茂(賛育会専務理事)など、経営面は藤田逸男(賛育会専務理事、東大YMCA主事)、吉野作造(賛育会理事)、星島二郎(賛育会理事、弁護士、後に衆議院議長)、片山哲(賛育会理事、弁護士、後に内閣総理大臣)が参画した。 1923年の関東大震災で病院は罹災したが、職員は救護班を設置して救援活動にあたった。しかし、それまで木下の主張などにより原則無料診療であった病院は、それまで経済的に支援してきた木下の病院が同時に焼失したため、自立を要請され、無償の慈善事業から有償の社会事業に転換することになる。
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