豪州王座獲得
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1951年5月14日の夜、シドニースタジアムで豪州バンタム級王者エリー・ベネットに挑戦。ベネットは世界ランク5位でKO率の高い選手だったが、試合前にベネットがバンデージに細工をしている様子にトレーナーのマコーネルが気付き、ベネットのマネージャーにバンデージの下はテーピングしかしないことになっていたはずだがと知らせた。警察立会いの下で両者はテーピングをし、バンデージを巻いた。 カラザースは1ポイントも許さず、判定勝ちでプロ転向後初の王座を獲得した。試合そのものは非常にクリーンで、両者ともにノックダウンはなかったが、スタジアムを埋めた観客は大喝采を送った。試合後、カラザースは4回に左手を傷め、終盤には左目の腫れも気になっていたと語り、マコーネルはスタジアム社が世界王者のタウィールを呼んでオーストラリアで挑戦させてくれることを望むと語っている。ベネットのマネージャーは、契約に基づいて権利を行使し、3、4週間のうちに再戦させたいと話したが、これは実現しなかった。 この日、シドニースタジアムでは、17時に客席を求めて列ができ始めた。リングサイドはその週のうちに売り切れていたが、スタジアムの外ではチケットが3豪ポンドで売られており、全12,500席が20時までに完売した。チケット売り上げは戦後のオーストラリア人同士の対戦での最高額となった。カラザースは技術面で優れていただけでなく、スタミナと勇気も持ち合わせており、この頃からオーストラリアで最も有望な選手と言われ、世界王者への期待が高まっていった。プロ9戦目のことだった。 その後、カラザースは2人の国外選手との試合を経験。まず経験の浅い米国人に7回TKO勝利を収め、続いて、マヌエル・オルティスへの3度の世界挑戦経験を持つベテランで、小型軍艦の異名をとるルイス・カスティージョに判定で勝利した。 翌1952年3月、豪州フライ級王者タフィー・ハンコックと対戦し、体格の劣るハンコックに7回TKO勝ち。 同年4月、元豪州フェザー級王者レイ・コールマンとキャッチウェイトの121ポンドで対戦。コールマンは巧いボクサーだったが、カラザースのサウスポースタイルに動揺して終始バランスを欠き、接近戦を仕掛けたものの12回判定でカラザースに敗れた。5月には米国人でニューイングランドバンタム級王者のジョニー・オブライエンとシドニースタジアムで対戦。過去にオーストラリアで3戦1勝のオブライエンに判定で勝利した。豪州王座は防衛せず、オブライエン戦までにプロデビュー以来14連勝を重ねた。
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