讃岐生駒氏とは? わかりやすく解説

讃岐生駒氏(矢島生駒氏)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 23:27 UTC 版)

生駒氏」の記事における「讃岐生駒氏(矢島生駒氏)」の解説

大名生駒氏土田生駒氏(どたいこまし)、美濃生駒氏とも称される生駒豊政の妹が嫁いだ土田より子親重を養子迎え生駒姓を与え養子分家としたのが始まりであり、元は六角氏傍系土田氏、土田甚助である。 土田氏には信長祖母いぬゐ、母土田御前、はじめ織田信長本能寺の変発生した後には羽柴秀吉仕え重用され生駒親正が出る。讃岐国126千石余り当時)を与えられ高松城新たに築いてそこに移り大名となる。生駒一正時代領内検地実施し175千石島しょ部もふくむ)となる。 初代親正が豊臣政権三中老として遇されるなど重用されていたが、1600年慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家門存続を図るため親正が西軍属す一方で、親正の子生駒一正東軍徳川家康属して戦う。戦後一正丸亀城から高松城に移る。 1640年寛永17年)親正のひ孫高俊の時お家騒動生駒騒動)が起こり騒動の責を受け出羽国由利郡矢島配流となり堪忍料として1万石が与えられた(矢島生駒家)。高俊の次男明に2000石が分知され旗本に、嫡男高清が8000石の交代寄合旗本となり、以後幕末まで続いた1868年明治元年)親敬の功が評価され賞典禄1000石を賜ったまた、維新後には実高による高直が行われた結果石高1万5200石となり諸侯に列せられた。1884年明治17年7月8日親承は男爵授けられた。 家紋「波引車」の由来 朝鮮出兵に参陣した時、海を渡る時に陣幕が波をかぶり、当時使用していた陣幕紋「丸車」が半分海水浸かる。しかし、戦功挙げたことから、以後半円形の「波引車」を家紋として使用するようになったという(『讃羽綴遺録』)。

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