讃岐生駒氏(矢島生駒氏)
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大名生駒氏、土田生駒氏(どたいこまし)、美濃生駒氏とも称される。生駒豊政の妹が嫁いだ土田氏より子親重を養子に迎え生駒姓を与え養子分家としたのが始まりであり、元は六角氏傍系の土田氏、土田甚助である。 土田氏には信長の祖母いぬゐ、母土田御前、はじめ織田信長、本能寺の変が発生した後には羽柴秀吉に仕え重用された生駒親正が出る。讃岐国12万6千石余り(当時)を与えられ高松城を新たに築いてそこに移り大名となる。生駒一正の時代に領内検地を実施し17万5千石(島しょ部もふくむ)となる。 初代親正が豊臣政権の三中老として遇されるなど重用されていたが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは家門の存続を図るため親正が西軍に属する一方で、親正の子の生駒一正が東軍の徳川家康に属して戦う。戦後、一正は丸亀城から高松城に移る。 1640年(寛永17年)親正のひ孫高俊の時お家騒動(生駒騒動)が起こり、騒動の責を受け出羽国由利郡矢島へ配流となり堪忍料として1万石が与えられた(矢島生駒家)。高俊の次男俊明に2000石が分知され旗本に、嫡男高清が8000石の交代寄合旗本となり、以後幕末まで続いた。 1868年(明治元年)親敬の功が評価されて賞典禄1000石を賜った。また、維新後には実高による高直しが行われた結果、石高が1万5200石となり諸侯に列せられた。1884年(明治17年)7月8日親承は男爵を授けられた。 家紋「波引車」の由来 朝鮮出兵に参陣した時、海を渡る時に陣幕が波をかぶり、当時使用していた陣幕紋「丸車」が半分海水に浸かる。しかし、戦功を挙げたことから、以後、半円形の「波引車」を家紋として使用するようになったという(『讃羽綴遺録』)。
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