讃岐忌部と紀伊忌部
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 01:52 UTC 版)
古語拾遺には「手置帆負・彦狭知の二はしらの神をして~」とあるように讃岐忌部氏の祖神・手置帆負命と紀伊忌部氏の祖神・彦狭知命が並列に書かれ、また手置帆負命が紀伊にも居住し、この2神の末裔が紀伊国名草郡の御木・麁香に居住していると記されている。日本書紀には、手置帆負命は作笠者(かさぬい)、彦狭知命は作盾者(たてぬい)とあり、共に役割が異なる専門技術者であったとみられる。 また、千葉県南房総市丸山町に莫越山(なこしやま)神社が沓見と宮下にあり、 両社とも祭神は手置帆負命・彦狭知命である。沓見「莫越山神社」由緒によると、「神武天皇元年、天富命が忌部の諸氏を率いて東土の開拓に安房の国に来臨し、東方の開拓をなされた時に随神として来られ、工匠の職に奉仕した天小民命(あめのこたみのみこと)・御道命(みじのみこと)が、その祖神である手置帆負命と彦狭知命を当社に祀り、祖先崇敬を示されたことに始まる。手置帆負命・彦狭知命は、天太玉命に従って宮殿家屋機械器具の類をつくりはじめた神で、工匠の祖神であった。」とあって、ここでも両神の一体性を見ることができる。
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