誌面の移り変わり
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当時既に1906年から成功雑誌社で『探険世界』誌が村上濁浪主筆で刊行されていたが、こちらが海外ノンフィクション中心だったのに対し、『冒険世界』は次第に独自性を明らかにしていく。1910年(明治43年)4月増刊号は「世界未来記」と題され、春浪の「破天荒怪小説 鉄車王国」、閃電子(三津木春影)「神力博士の生物製造」、虎髯大尉「日米戦争夢物語」、坪谷水哉「明治百年東京繁盛記」、冒険記者「太陽の寿命と地球の滅亡」など小説、読物、漫画のSF的作品が掲載されている。 スポーツでは野球、相撲、柔道などの記事を掲載。1908年7月には同誌主催で「天幕旅行大運動会」を開催、これは日比谷公園から千葉県鴻の台まで徒歩旅行し、テントで一泊、翌日に陸上競技、高飛び、幅飛び、相撲などの競技を行うものだった。1909年には『少年世界』誌と共催で、靖国神社から王子の飛鳥山まで徒競走するという「振武大競走」を計画するが、これは混乱を予想した麹町警察署によって中止させられた。また前田光世の武者修行談も海外通信として誌面で紹介された。 1911年に東京朝日新聞で野球への反対記事が載ると、春浪による反論を掲載したが、続いて「野球と其害毒」(野球害毒論)が起こると、さらに大々的な反論記事を作成する。しかし編集局長の坪谷水哉に掲載中止を要請され、巖谷小波の引き止めもあったが春浪は博文館を退社。『冒険世界』は阿武天風が主筆となり、春浪はこの後、興文社(後に武侠世界社)で『武侠世界』を創刊する。 主な執筆者として冒険小説、記事で阿武天風、橋戸信、表紙・挿絵で小杉未醒などがいた。 1919年(大正8年)に終刊となり、代わって翌年から『新青年』が刊行された。
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