詩誌『ロシナンテ』
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復員後、金銭的にも精神的にも困難な生活の中で石原を支えたのは詩作だった。当時を回顧して、この時代に作った詩は立原道造流の感傷的なものばかりだったと石原は書いているが、同時に「それでも結構救いになったのかもしれない」とも述べている。 この時に書いた詩を5、6編まとめて三好達治に送ってみたところ、意外なことに三好から石原宛に葉書の返信があり、「まだ甘いところがあるが、素質のようなものが感じられる」という内容のものだった。石原は、この時の三好からの葉書がなければ石原が詩人として立つことはあるいはなかったかもしれない旨述べており、また「今も私は、その一枚の葉書に心から感謝している」と書いている。これから後、石原は次第に詩人として本格的な道へ入っていくことになる。 当初、詩の投稿の主目的は賞金だった。入賞しやすそうな婦人雑誌に女の名前で投稿していたが、どこからも相手にされないことが続いた。 そのようなことを続けて半年経った1954年の夏、偶然書店で手にとったのが文芸雑誌『文章倶楽部』(『現代詩手帖』の前身) で、家に帰ると30分で1篇の詩 (「夜の招待」) を書いて石原はこの雑誌に投稿した。2ヵ月経っても石原の詩の掲載はなかったが、石原自身は「夜の招待」を詩だなどと思っていなかったので別に意に介することもなく、特に理由もないまま、また英会話クラスに通いだす生活をしていた。ところが、しばらくして、初投稿した詩が『文章倶楽部』にいきなり特選で掲載された。当時の文章倶楽部の投稿者たちにとって「夜の招待」は衝撃的な詩だったという。この時の選者は、鮎川信夫と谷川俊太郎で、詩風は立原道造の影響がなくなり、完全に自己流の詩に変わっていた。五味康祐も「夜の招待」をずいぶん褒めたという。この時の石原の驚きは相当だったようである。 また、この月に同誌の読者会東京支部の例会に初めて顔を出した。ここに集まっていた詩人たちと石原は例外的に打ち解けた。ここで、新しく詩誌を作る話が進み、同年に暮れの忘年会席上、誌名を『ロシナンテ』とすることに決まった。この名前は、本来は石原が第1詩集を出す時につけようと考えていたものだったが、忘年会の中の議論で成り行きから誌名にとられたものだった。集まっていたのは20歳そこそこの若い詩人ばかりで、石原は1人だけ年齢が高かったが両者とも別段問題にするわけでもなかった。『ロシナンテ』は1955年(昭和30年)4月から隔月刊で発行を開始、編集長に好川誠一、発行責任者に石原がついた。 この時代のことを後に石原はエッセイ集『日常への強制』の中で書き、帰国してから約3年間が自分にとって最も苦痛に満ちた期間であった、それに比べればラーゲリの体験などほとんど問題にならない、と述べている。そのような苦痛に満ちた生活の中で『ロシナンテ』の仲間との活動は石原に遅れてやってきた一種の青春だったようである。 一方、石原の投稿作は『文章倶楽部』に「夜の招待」の翌月以降も特選に選ばれ、翌年の1955年(昭和30年)の途中からは投稿欄ではなく本欄に掲載されるようになった。
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