詐欺事件に連座
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 16:40 UTC 版)
「ヴィルヘルム・フォン・エスターライヒ (1895-1948)」の記事における「詐欺事件に連座」の解説
1934年、ヴィルヘルムはポーレット・クイーバーという女性と交流を持ったが、これが国際的なスキャンダルを引き起こすことになった。ポーレットは詐欺容疑で逮捕され、詐欺について最初は「自分一人でやったこと」と供述していたが、やがて供述を変えて「ハプスブルク家再興の資金集めのため、ヴィルヘルムと一緒に活動した」と話した。フランス新聞各紙は「ハプスブルク家再興のための詐欺」をはたらいたと断じ、ヴィルヘルムを批判した。当時フランスでは社会主義者と共産主義者がフランス人民戦線を結成することで合意し、左派が幅を利かせていた。フランス亡命時代、共産主義の非人道行為を公然と批判していたヴィルヘルムを叩く絶好の機会であるため、左派諸政党の新聞はこのスキャンダルを最大限に利用したのである。 有期刑の可能性もあると警告する友人たちの忠告に従い、ヴィルヘルムはフランス国外への逃亡を決断した。この後フランスのマスコミは、オーストリアの君主制復活運動は馬鹿げたものだというプロパガンダとしてこの詐欺事件を取り上げるようになった。例として『ル・ポピュレール』誌は、 「ハプスブルク家、狂気を生み出した例には枚挙にいとまがない呪われた一族の血。この一族では殺人が自然の死と同じくらい頻繁に起きたし、不幸な女性たちは長い間切れ切れにしか眠れずにいたのだ!1914年、その血は世界中に降りかかった。昨日は、その血がパレ・ド・ジュスティスの中のパリ第十六刑事裁判所に入り込んできただけなのだ」 などと、ハプスブルク家そのものを痛烈に罵倒している。ツィタやオットーら本家の人間は、このスキャンダルがハプスブルク家に傷をつけたとして激怒した。ヴィルヘルムはフランスから逃亡した際にはまだ金羊毛騎士団の団員だったが、おそらくオットーの圧力によって1936年3月にその身分を「自発的に放棄」せざるをえなかった。
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