設備出資・譲渡と解散
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日本発送電設立時には設備出資の対象とならなかった神岡水電だが、1941年5月公告の出資命令により日本発送電への設備出資を命ぜられた。対象となったのは猪谷・中山両発電所と、両発電所間を結ぶ送電線(中山線、使用電圧6.6キロボルト)である。同年10月1日付で出資は実施され、設備の評価額が717万5699円50銭とされたため神岡水電には日本発送電株式14万3513株(717万5650円)が割り当てられ、残額の49円50銭が現金にて交付された。なお日本発送電は猪谷・中山両発電所のみならず神岡水電の全事業を移管するよう要請していたが、跡津発電所の建設当時の事情および神岡軌道を三井鉱山から譲り受けた経緯を説明してこの両者を神岡水電の手に残す了解を得、全事業の移管を免れた。 神岡水電が建設を引き受けていた日本発送電東町発電所は、前述の通り1942年9月までに完成した。また長年調査を進めていた高原川本流、支流の双六川・蒲田川における約8万7000キロワットに及ぶ電源開発計画も電力管理法により断念せざるを得なくなり、一方で既存事業の中心であった猪谷・中山両発電所を日本発送電へと出資したため、会社の存在意義を喪失した。かくして会社に残った跡津発電所と神岡軌道を親会社の三井鉱山に譲渡し、さらには全職員・従業員をも同社に引き継いで解散することを決定、1942年9月30日付で解散して神岡水電は消滅した。解散後の清算事務は1947年(昭和22年)まで続けられた。 神岡水電から日本発送電へ出資された猪谷・中山両発電所は、太平洋戦争後の1951年(昭和26年)、日本発送電の解体とともに北陸電力株式会社へと引き継がれた。また三井鉱山へと戻った跡津発電所は、戦後双六川に建設された金木戸発電所とともに引き続き神岡鉱業所の事業を支えることになる。
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