解散・メンバーのその後
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「テイスト (バンド)」の記事における「解散・メンバーのその後」の解説
1970年、セカンド・アルバムがリリースされるころになると、メンバー間の音楽的な志向にズレが生じるようになった。やりたい音楽の違いが感情すれ違いを生み、さらにこの頃、いくらレコードが売れてもクラブを満杯にしても収入が増えないことに我慢の限界を感じていたロリーがバンド・リーダーとしてマネージャーに待遇改善を直訴すると、ケネディは他の2人のメンバーに「ロリーは自分がバンドをコントロールしたいと言ってきた。ギャラは自分が管理して他の2人に支払いたいとも言っていた」とウソを言い、それを信じた2人との間に大きな溝を作ってしまう。1970年夏には大イベント「ワイト島音楽祭」に出演し大喝采を浴び、セカンド・アルバムもチャートインするなど評判はますます高まっていったが、バンドは崩壊に向かっていた。 ついに10月、ロリーがバンドからの脱退を申し出る。その後解散まで予定の入っていたギグをこなすものの、最後の数週間はステージに上がるのも苦痛であったという。 その後、ロリーはコークの実家へ戻りしばらくの間静養し、同時にソロ活動のための準備を始める。引き続きエディ・ケネディをマネージャーとしたジョンとリッチーは、スタッド(Stud)を結成。ロリーよりも先に音楽活動を再開し、アルバムもリリースするが生活は相変わらずで、ケネディのマネージメントに不信感を抱くようになったのはそれからのことだったという。
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解散、メンバーのその後(1991年以降)
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「トーキング・ヘッズ」の記事における「解散、メンバーのその後(1991年以降)」の解説
『ネイキッド』以降、バンドとしての活動は途絶えていたが、1991年、ヴィム・ヴェンダースの映画『夢の涯てまでも』のために「サックス・アンド・ヴァイオリンズ」をレコーディングをするために集結、レコーディング終了後に、バンドの解散が正式にアナウンスされた。 デヴィッド・バーンはソロ活動はもとより、「ルアカ・バップ」でのワールドミュージックの紹介など精力的に活動を続けている。クリス・フランツ、ティナ・ウェイマスは引き続きトム・トム・クラブで活動。ジェリー・ハリスンは、バンド解散後にプロデューサーに転向。ヴァイオレント・ファムズやクラッシュ・テスト・ダミーズなどのバンドのプロデュースで一定の評価を得た。 1996年には、バーン以外の3人が「ザ・ヘッズ(The Heads)」を名乗り、XTCのアンディ・パートリッジ、INXSのマイケル・ハッチェンス、ブロンディのデボラ・ハリーなど、他のバンドのボーカリストにボーカルを取らせたアルバム『ノー・トーキング、ジャスト・ヘッド』をリリースした後、ジョーネット・ナポリターノをボーカルに迎えたツアーを行った。 2002年にはロックの殿堂入りを果たし、授賞式で恒例となっているライブのために一夜だけの再結成を行ったが、メンバー間には終始冷たい空気が流れていた。その後、バーンは「他メンバーとの音楽性の相違から再結成は確実にない」と断言している。
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