親直隷派高官とは? わかりやすく解説

親直隷派高官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 14:39 UTC 版)

高凌霨」の記事における「親直隷派高官」の解説

1894年光緒20年)に挙人となる。湖北省赴任し、啓新書院中学堂副監督湖北武備学堂監督湖北省造幣総弁歴任した1908年光緒34年2月湖広総督張之洞推薦により、高凌霨は湖北提学使に昇進する1910年宣統2年9月湖北布政使昇進した1911年宣統3年10月武昌起義の際には、上海へ避難している。 1912年民国元年)、高凌霨は共和党加入し、その幹事となった1913年民国2年)より、北京政府の命により国内各省銀行改組について事務担当する。さらに、署直隷省財政司司長直隷省税調査処及国税籌備処処長に就任した。この時、保定駐屯していた陸軍第3師長曹錕親交結んでいる。翌年4月奉天省移り都督張錫鑾高等顧問就任した1917年民国6年)、直隷省から参議院議員選出された。1920年民国9年)、靳雲鵬内閣で農商部次長就任したが、内閣自体短期崩壊している。1921年民国10年10月、曹錕の推薦により、財政総長就任(後に塩務署督弁、幣制局督弁も兼任)した。顔恵慶臨時内閣梁士詒内閣では内務総長就いた1922年民国11年6月交通総長兼任した。しかしまもなく直隷派内部呉佩孚率いる「洛派」と曹錕率いる「津保派」との間で派閥対立発生する。「津保派」と目されていた高凌霨は、呉の圧力を受ける形で辞任した。それでも曹の後押しにより、その後財政総長、農商総長内務総長歴任している。 1923年民国12年6月14日張紹曽後任として、高凌霨は、内務総長兼暫行代理国務総理となる。高は曹錕の総統選出政治的に支援し10月、曹は総統選出された。しかし、この選出は「賄選」と称されるほどの腐敗した過程よるものであり、その責任者として高は糾弾され、曹もやむなく高を罷免した。結局、高は、正式に総理なれないまま代理総理罷免されのである

※この「親直隷派高官」の解説は、「高凌霨」の解説の一部です。
「親直隷派高官」を含む「高凌霨」の記事については、「高凌霨」の概要を参照ください。

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