親盛死没の諸説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:36 UTC 版)
『三河物語』には清康二十歳の頃に尾張国岩崎(日進市岩崎)・品野(瀬戸市品野)の両郷を攻め、続いて東三河の宇利の熊谷氏を討ったとし、その宇利城の大手攻めにて一歩も引かなかった親盛は、多くの傷を被って主従12-3人と共に討死したと記す。清康は永正8年(1511年)生まれであるから、この戦いによる親盛の死は享禄3年(1530年)頃と推定される。 一方、『朝野旧聞裒藁』では『西蓮寺系図附録』を根拠に、この戦いで戦死したのは親盛嫡子の親次としている。『西蓮寺系図附録』には松平親盛の享禄3年11月の証文が所載されているため、親盛の生存が窺われるからである。ただし、松平氏の研究者である平野明夫は『朝野旧聞裒藁』は宇利城攻めを享禄2年としているため、整合性を考えれば宇利城攻めを享禄3年発生の出来事と仮定する。 この件について平野明夫は、この親盛証文について紙質・字体に疑問点が多いとする、安城古文書研究会編 『西蓮寺文書』(安城市教育委員会、1991年)の見解を挙げ、むしろこの時の親次の戦死を想定するならば、享年28では文亀3年(1503年)生まれとなり、延徳2年(1490年)生まれの兄・松平信忠との年齢差的(14歳差)に疑問を示している。平野は宇利城での戦死はやはり親盛であり、享年は28であったと結論付けている。
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