見性院の密書とは? わかりやすく解説

見性院の密書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/24 01:38 UTC 版)

笠の緒文」の記事における「見性院の密書」の解説

慶長5年7月大坂石田三成は、会津征伐遠征中の徳川家康与する大名妻子人質取り家康方の動き制しようとしていた。そんな折、大坂城より見性院元へ書状届いていた。増田長盛長束正家連署があるこの書状は、石田三成への味方促す書状であった。一豊に届けよという使者言葉通り見性院は夫にその書状届けることにするが、それとは別に2通の手紙をしたため、1通を届けられ未開封書状と共に文箱収め、もう1通を観世よりにして、使者田中孫作の笠の緒により込んだ孫作一路下野国に陣を張る豊の元へ向かったが、途中追剥遭い文箱と笠だけは何とか持っていたものの、衣服大小を盗られた。そこで孫作は他の者の衣服と刀(銘兼元)と脇差奪ってそのまま旅を続け美濃路では鮨屋床下で二昼夜過ごしすし桶盗んで飢えしのいで下総国諸川の一豊の陣に到着した慶長5年7月24日のことであった。一豊はまず笠の緒の文を読んだ後、近侍野々村迅政に焼かせ、文箱は封をしたまま、小山に陣を貼る家康届けさせた。家康大坂城内の様子知りえたこと、同封されていた見性院の、家康忠義尽くすように促す内容の手紙に感動した文箱そのまま差し出したことには、大きな意味があった。まず、一豊が自らも文箱開かず一切権限家康任せたことで、一豊に二心なしと家康見たことである。そして、見性院の手紙の方には、「上様能々よくよく忠節遊ばされ候へ」と、一豊に家康への忠誠を貫くようにとの旨が書かれていた。また、笠の緒により込まれ密書の方であるが、恐らくは書状未開封差し出すよう指示する文書であったとも推測される。他にも、大坂城内の様子上の情報記されており、それが翌日小山評定での、掛川城明渡しつながったという見方もある。また一豊は、その後大坂情報流し続けたといわれる。 この笠の緒の密書に関しては、田中孫作は「別段御心を込められ密書」と述べている。また、孫作美濃路奪った衣類の紋は後に田中家定紋となっており、田中家はこのことを名誉とみなしていたことがわかる。文箱託され田中孫作近江国坂田郡高溝出身で、誠実な人柄であり、この密書の話は、孫に語って聞かせたものとされている。孫作墓所は、一豊夫妻と同じ妙心寺大通院にある。 この笠の緒文に関して頼山陽こういう詩を作っている。 隔テテ児女ト離ル死生ノ間 風雲再開向背ノ間一条ノ笠八行ノ字ヲ繋グ 博シテタリ海南千里ノ山 — 頼山陽渡部、132-133頁。 長屋重名『かゞみ』には、孫作の笠に密書より合わせる見性院描かれており、「御密書御手つからクワンゼヨリと成され編笠の紐として御使孫作授け玉ふ」とある。

※この「見性院の密書」の解説は、「笠の緒文」の解説の一部です。
「見性院の密書」を含む「笠の緒文」の記事については、「笠の緒文」の概要を参照ください。

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