西田哲学の受容と失恋、退学とは? わかりやすく解説

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西田哲学の受容と失恋、退学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 05:47 UTC 版)

出家とその弟子」の記事における「西田哲学の受容と失恋、退学」の解説

1910年明治43年9月倉田百三第一高等学校入学し立身出世夢見て勉学励んだ当初百三は哲学志しアルトゥル・ショーペンハウアー唯我論感化されていったが、翌1911年明治44年9月、父のすすめもあって法科転じるこの頃の百三は、唯我論突き詰めるとどうしても利己主義行きついてしまい、理性では納得しつつも感性として受け入れられなかったことから、次第自己の内での葛藤苦しむようになっていた。 そのような時に百三は西田幾多郎の『善の研究』と出会う主観客観もない主客合一境地実在根本であり、哲学究極宗教であると説く西田の『善の研究』に感銘受けた百三は、それまで唯我論から純粋経験へと認識論転換した。百三が『善の研究』を読んで受けた衝撃強烈で、1912年明治45年2月一高での授業放棄して岡山第六高等学校で学ぶ親友香川三之助宅で『善の研究』を熟読し過ごした。そして、庄原帰郷すると父を説得して哲学を学ぶために再度文科への転科認めさせて、9月文科2年として復学した。この時、上京する帰途京都途中下車して西田訪ねている。 その後、百三は、日本女子大学校通っていた妹の艶子の同級であった逸見久子恋愛関係となった入学当初首席獲得するほど勉学励んでいた百三であったが、久子との恋に溺れるようになり、1913年大正2年7月落第。ところが、9月からの授業再開までの間に庄原帰省していた百三のもとに、久子から絶縁状届いて二人の関係は突然終わった他家との縁談まとめていた両親軟禁状態で書かされたもので必ずしも久子本心であったわけではなかったが、百三はこの失恋大きなショックを受ける。そして、そのこと原因一つとなって百三は病に倒れた診断結果、百三の病は肺結核であることが分かりその後病状悪化する一方であったため、同年12月一高退学余儀なくされた。

※この「西田哲学の受容と失恋、退学」の解説は、「出家とその弟子」の解説の一部です。
「西田哲学の受容と失恋、退学」を含む「出家とその弟子」の記事については、「出家とその弟子」の概要を参照ください。

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