西田哲学の受容と失恋、退学
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「出家とその弟子」の記事における「西田哲学の受容と失恋、退学」の解説
1910年(明治43年)9月、倉田百三は第一高等学校に入学し、立身出世を夢見て勉学に励んだ。当初百三は哲学を志し、アルトゥル・ショーペンハウアーの唯我論に感化されていったが、翌1911年(明治44年)9月、父のすすめもあって法科に転じる。この頃の百三は、唯我論を突き詰めるとどうしても利己主義に行きついてしまい、理性では納得しつつも感性として受け入れられなかったことから、次第に自己の内での葛藤に苦しむようになっていた。 そのような時に百三は西田幾多郎の『善の研究』と出会う。主観も客観もない主客合一の境地が実在の根本であり、哲学の究極は宗教であると説く西田の『善の研究』に感銘を受けた百三は、それまでの唯我論から純粋経験へと認識論を転換した。百三が『善の研究』を読んで受けた衝撃は強烈で、1912年(明治45年)2月に一高での授業を放棄して、岡山の第六高等学校で学ぶ親友の香川三之助宅で『善の研究』を熟読して過ごした。そして、庄原に帰郷すると父を説得して哲学を学ぶために再度文科への転科を認めさせて、9月に文科2年として復学した。この時、上京する帰途に京都で途中下車して西田を訪ねている。 その後、百三は、日本女子大学校に通っていた妹の艶子の同級であった逸見久子と恋愛関係となった。入学当初は首席を獲得するほど勉学に励んでいた百三であったが、久子との恋に溺れるようになり、1913年(大正2年)7月に落第。ところが、9月からの授業再開までの間に庄原に帰省していた百三のもとに、久子から絶縁状が届いて二人の関係は突然終わった。他家との縁談をまとめていた両親に軟禁状態で書かされたもので必ずしも久子の本心であったわけではなかったが、百三はこの失恋に大きなショックを受ける。そして、そのことも原因の一つとなって百三は病に倒れた。診断の結果、百三の病は肺結核であることが分かり、その後も病状は悪化する一方であったため、同年12月に一高退学を余儀なくされた。
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