西念寺所蔵 「服部半蔵の槍」
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「服部半蔵」の記事における「西念寺所蔵 「服部半蔵の槍」」の解説
西念寺 (新宿区)には新宿区登録有形文化財である「服部半蔵の槍」が奉納されている。槍の現存部分の全長は258cm、重さ7.5kgである。寺伝によれば、この槍は三方ヶ原の戦功により正成が浜松城で家康より拝領したものとされる。正成の兄である服部保俊(服部市平保俊)の子孫にあたる服部市郎右衛門が保有し西念寺に奉納した。槍に附属する文書記録によれば、この槍は正就が姉川一番槍を入れた際に使用していたものとされ、銘は「鬼切丸」であり、別名を「髭切丸」「膝切丸」「蜘蛛切丸」と記されるが詳細は定かではない。明暦3年(1657年)の地震により穂先一尺四寸一分(42.7cm)が折れたが、元の穂の長さは四尺(121cm)であり、中心が抜けないまま鞘付きで箱に収められた状態であった。また、この槍については桑名市所蔵の史料にも「得道具大身鑓は武州四谷西念寺に相納む 穂先折れたるを同姓市平家筋に所伝の由」と記されており、享保2年に西念寺で槍と由来を書写した服部正武は桑名藩に仕えた正成の子孫(正就と松尾の子の家系、小服部家)である。槍の作者は現在も判明していないが、その作りは質実剛健な大身槍である。損傷部位は穂先の折れに加え、柄は半面と長さの半分(約150cm)が焼失している。太平洋戦争中の昭和20年5月29日、空襲の火災から槍を守るため住職が芝生に避難させたが、あまりの火勢で地面に接していなかった片面半分と柄の一部が焼失してしまったという。また、穂先が折れた原因については「地震が起きた時、家康から拝領した槍を守るため正成が清水谷へ放り投げたところ折れてしまった」との逸話と共に、寺伝では「安政の大地震で穂先30cm程が折れた」とされている。 なお、槍に附属する文書記録ではこの槍を「姉川一番槍で使用した」とするが、「貞享書上松平越中守家臣服部半蔵正秀記」等によれば姉川合戦で使用したのは正成16歳の宇土城戦功により拝領した槍(穂先七寸八分(29.6cm))であるとされる。西念寺所蔵の槍は損傷前の穂先は四尺(121cm)であったと伝わるため、穂先の長さに差異が生じる。姉川一番槍で使用された槍が宇土城の戦功で拝領した槍であったならば、西念寺所蔵の槍は寺伝による三方ヶ原の戦功で浜松城二の丸にて家康より拝領した槍という事になる。またこの時拝領した槍は「無銘・作者不明の槍と平安城長吉の槍」の二本であり、このうち平安城長吉の槍(銘不明)は正成の次男である服部正重が所有し晩年桑名藩に仕官した際、藩主の息子である松平定良に献上している事から、西念寺の槍はこれと同時に贈られた無銘・作者不明の槍であると推察される。
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