蝶になる途中九億九光年
作 者 | |
季 語 | |
季 節 | 春 |
出 典 | 卯 |
前 書 | |
評 言 | こうしたスケールの大きい、気宇壮大な句の魅力を説くとき、良く引き合いに出されるのが、李白の「白髪三千丈 愁ひによつてかくのごとく長し(秋浦の歌 其の十五)」や詩人高橋新吉の「留守と言え/ここには誰も居らぬと言え/五億年経ったら帰って来る」があげられる。いずれも人間の五感の導き出すイメージの誇張法による映像美と言えよう。 掲句、上五「蝶になる」の読みとしては、中七、下五の作用により蝶が蝶としてその形状をなすまでの意と、自分自身が変身や輪廻転生の結果蝶になるまでの意の、二通りに読める。その途中九億九光年という膨大な時間を要した、あるいは要する ということになる。こうした数字の誇張法による詩情の表白は、俳句(詩)には珍しくはないが、その巧拙が決め手のひとつになる。賛否の分かれるところだ。あきらかに机上の句であり、虚構の産物だが、詩的真実は余すところなくヒシヒシと伝播される。だが日常性と写生を重んじる昨今の俳壇では余り歓迎されない。しかし、こうした気宇壮大な句は、写生を、日常性を、さらにはそこに到る伝統的経緯を、十二分に咀嚼し、その基本的骨格を凌駕したしたものにしか創造出来そうもない要素を孕んでいることは、自ずと理解できるはずである。故にそこにこそ真の意味での普遍性が潜んでいる気がしてならない。この手法、後世に名を遺している詩人(俳人)は、必ずと言っていいほど一度は手に染めている。俳句でいえば、 荒海や佐渡に横たふ天の河 芭 蕉 いな妻や浪もてゆへる秋津しま 蕪 村 遠山に日の当りたる枯野かな 虚 子 蝶堕ちて大音響の結氷期 赤黄男 無論、橋 閒石の偉業はこうした気宇壮大な句ばかりではない。細やかな日常性からほのかなエロス、俳を心得た心象風景に到るまで、そのエンターテーメント性は、第十八回蛇笏賞受賞、第三回詩歌文学館賞受賞他、数々の受賞からも推測出来よう。 |
評 者 | |
備 考 |
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