虫太郎と横溝正史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 06:39 UTC 版)
小栗のデビュー作「完全犯罪」は本来、『新青年』水谷準編集長の企画として1933年(昭和8年)7月号に横溝正史が百枚物の読み切りを書く予定であったものが、5月7日に横溝が大喀血して執筆不可能となり、急遽小栗がピンチヒッターとして掲載されたものだった。横溝は水谷編集長に平謝りだったが、水谷からは「心配することはない、こちらに手ごろな長さの作品があるから」と静養に努めるよう言われたという。この水谷の手持の原稿というのが「完全犯罪」だった。横溝は「世にこれほど強力なピンチヒッターがまたとあろうか。私が健康であったとしても、『完全犯罪』ほど魅力ある傑作を書く自信はなかった」と述べている。 太平洋戦争の始まる少し前、ある会の帰りに横溝は小栗と二人でおでん屋で酒を飲んだ。そのとき、小栗が「横溝さん、あんたが病気をしたおかげで、私は世の中へ出られたみたいなもんだよ」と言ったという。横溝は「阿房なことをいいなはんな。わしが病気をしてもせんでも、あんたは立派に世の中へ出る人じゃ」と答えた。すると小栗は「それはそうかも知れないが、少くとも二三ヵ月早くチャンスが来たことは確かだからね」と言う。横溝は重ねて「よしよし、それなら、今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげる」と答えたという。 横溝は太平洋戦争末期に岡山県に疎開し、以後もしばらく岡山県に留まっていたが、1946年の春先、小栗から「海野十三に住所を聞いたから」と、突然手紙をもらった。小栗はその手紙の中で、「今後の探偵小説は本格でなければならぬ、自分も今後本格一筋でいくつもりである」と、意気軒高だったという。横溝も同じ思いだったので賛同し、2、3度文通を重ねたが、メチル禍により、小栗の突然の訃報に接したのは唖然とせざるを得なかったと語っている。 戦争中、横溝はほとんど誰とも往復せず、誰とも文通しなかった。戦争が終わってからまた旧交を温め、二三度手紙を往復したかと思うと、突然小栗急逝の電報である。横溝には何が何やらわけがわからなかったが、間もなく海野十三から詳しい報告を聞いて、初めて死の真相を知った。横溝は痛恨傷心のあげく、二三日何もしないで寝込んでしまったという。小栗が死ぬ前に書き送った手紙で、小栗の探偵小説に対する熱情が、並々ならぬものであることがうかがわれ、それだけに失望落胆は大きかったという。 小栗は突然の死の前に、『ロック』で長編連載を予定していた。このため同誌の山崎徹也編集長は途方に暮れ、横溝に代わりの長編連載を頼んできた。当時『宝石』で『本陣殺人事件』を連載していた横溝だったが、「虫太郎のピンチヒッターというところが、いささかおセンチ野郎の私の心を動かし」たそうで、引き受けたのが『蝶々殺人事件』だった。横溝は「虫太郎のことを思えばおセンチにならざるを得ない」と、この作家の早世を儚んでいる。
※この「虫太郎と横溝正史」の解説は、「小栗虫太郎」の解説の一部です。
「虫太郎と横溝正史」を含む「小栗虫太郎」の記事については、「小栗虫太郎」の概要を参照ください。
- 虫太郎と横溝正史のページへのリンク