藤沢事件・被害者母娘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「藤沢事件・被害者母娘」の解説
2件目の事件(藤沢市内における母娘3人殺害事件)で妻子3人を失った男性D(当時46歳:会社員)は事件当時、厚木市内の日産自動車設計総務部工務課に勤務していた。Dは事件2年前の1980年3月30日に事件現場となった土地付き分譲住宅を約3,000万円で購入し、横浜市旭区内の社員寮から引っ越していた。 被害者少女A(16歳没・神奈川県立茅ヶ崎高校2年生の女子高生) - 1965年(昭和40年)11月30日生まれ。中学時代は父親の転勤・転居により1年ごとに転校を繰り返していたが、誰とでも気軽に付き合える屈託のない性格だった。高校入学直後の1981年6月以降、夏休みの旅行費用を稼ぐ目的で藤沢市鵠沼海岸にあるハンバーガーチェーン店(江ノ島店)にてアルバイトをしていた。 被害者少女B(13歳没 / Aの妹・一家の次女で藤沢市立明治中学校2年生) - 1968年(昭和43年)11月24日生まれ。 A・B姉妹の母親C(45歳没) - 1936年(昭和11年)に神奈川県鎌倉市で生まれ、私立女子高校を卒業後、就職先の光学会社で1年先輩だった男性Dと知り合い、6年間の交際を経て結婚した。事件当時は茅ケ崎駅前の大型スーパーマーケットで勤務していた。 遺族である男性Dは事件後、「『事件当日に早く帰宅していれば妻子を犯人から守ってやれたかもしれない』と悔やんでいる」とコメントし、第一審の証人尋問で法廷にて「被告人Fを妻子と同じように殺してやりたい。せめて3人分(3発)だけ殴らせてほしい」と証言したほか、上告審判決前日(2004年6月14日)には『読売新聞』の取材を受け「明日が上告審判決とは知らなかった。事件のことはもう思い出したくないが、死刑を望む気持ちは変わらない」と述べていた。
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