藍衣社の結成
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1930年(民国19年)、中原大戦終結後に曽拡情は四川省に戻り、軍事特派員に任命された。翌年9月、党第4回全国代表大会代表に選出され、さらに11月には第4期中央執行委員候補となっている。同年冬、中華民族復興社(いわゆる藍衣社)の結成に参画し、1932年(民国21年)3月、藍衣社監察幹事に任命された。翌年3月、四川党務特派員に任ぜられる。 1934年(民国23年)4月、曽拡情は国民政府軍事委員会北平分会政治訓練処処長に任命され、華北において反満抗日の地下工作に従事した。日本側は曽の各種工作に苦しみ、翌年6月の梅津・何応欽協定交渉の際に、日本側は曽も罷免要求の対象者に加えている。結局、同協定の成立に伴い軍事委員会北平分会は廃止され、曽も華北から撤退した。1935年(民国24年)7月、軍事委員会武昌行営政治訓練処西北分処中将処長(同年10月に西北剿匪総司令部政訓処処長に改組)に任ぜられた。翌年12月、西安事件が勃発すると、曽は罷免され軍法審判に付されたが、半年後に保釈されている。 日中戦争(抗日戦争)勃発後の1938年(民国27年)夏、曽拡情は軍事委員会戦時工作幹部訓練団第4団教育長代理に任命され、まもなく第8戦区長官部政治部中将主任に転じた。1943年(民国32年)1月、陸軍少将に任ぜられ、さらに陸軍大学政治部主任となっている。1945年(民国34年)5月、党第6期中央執行委員に再選された。
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