藍蘋との「確執」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 14:14 UTC 版)
1935年に映画「自由神」に主演し、同タイトルの主題歌も担当したこととほぼ同じ時期に、端役として演劇「娜拉」(人形の家)で舞台デビューしたばかりの藍蘋とも共演 することとなり、後々までに及ぶ藍蘋=江青との因縁が出来た。 翌1936年に、舞台「賽金花」の主役・賽金花を巡って、女優選考で王瑩と藍蘋の二人が真正面から衝突していた。いつも同じ演劇や映画で端役や脇役として共演した「ライバル」王瑩を目の敵にしながら、キャリアのないまま一躍有名になった藍蘋に対し、子役時代からの芸歴の長いベテランとしての自負がある王瑩が一歩も引かず、止む無く原作者は両者とも主役としてダブルキャスト形式の公演を提案した。 だが、この提案に対し金山や王瑩が所属劇団の上海アマチュア演劇人協会から脱退し、新たに「40年代劇社」を結成し、舞台「賽金花」の公演を独自に踏み切った。「賽金花」は中国各地から3万人超の観客を集め、国内約20ヶ所の舞台で大ヒットした。一方、王瑩らが脱退したアマチュア演劇人協会は舞台「大雷雨」を対抗馬として打ち出し、藍蘋をその女主人公に演じさせたが、評判は芳しくなかったばかりか、その作品の演出家や役所の間のスキャンダルが続出した。藍蘋の内縁の夫・唐納の自殺未遂の件もあって、これを機に藍蘋は聯華映画公司から解雇され、その後の第二次上海事変を機に延安に行った。結果として「賽金花」の主役を巡った騒動は藍蘋と毛沢東との出会い・結婚のきっかけとなったが、その一方で王瑩に対しても文化大革命で迫害を受ける理由の1つになった。
※この「藍蘋との「確執」」の解説は、「王瑩 (女優)」の解説の一部です。
「藍蘋との「確執」」を含む「王瑩 (女優)」の記事については、「王瑩 (女優)」の概要を参照ください。
- 藍蘋との「確執」のページへのリンク