蔵玉・折木沢用水
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蔵玉・折木沢用水は上総層群黄和田層に建設された二五穴であり、先述の1970年7月1日の水害にも開口部の修復のみで復旧した。明治時代には「亀山村蔵玉台普通水利組合」が管理しており、土地改良法に基づき1952年に組織変更した「亀山村蔵玉台土地改良区」によって管理が行われている:313。 上田 et al. (2014)によると、トンネルのうち直線的なものが3400m、曲線的なものが1300m存在し、上田 et al. (2014)の調査範囲内では73%を占めることが明らかとなった。また取水口と用水の末端との比高は7mであり、勾配はおよそ1/900であることが導き出された:314。 蔵玉・折木沢用水は平山用水が完成した8年後である1844年(天保15年)から計画が存在し、1852年(嘉永5年)11月には役人の見分が行われていた。同月に川越藩の三本松役所(代官所)へ、坂畑村・折木沢村・釜生村・蔵玉村の各地主惣代及び組頭が提出した文書の「蔵玉用水願書」によると、この用水は山間のため田畑が少なく、また干ばつが続いたため、建設を求めたとされる:324。 龜山村藏玉の人にして寛政十年戊午年生る、同郷の人朝生仁兵衛及釜生の手島長治折木澤の嶋田八郎右衛門、鴇田彌兵衛、坂畑の神作重兵衛と相謀りて藏玉、釜生、折木澤、坂畑間の用水路延長四千百〇四間を開鑿布設し、工費金五百六拾八両餘を投じて嘉永六年五月新田拾四町二段七畝歩の開墾を竣成せり、功を以て川越藩より苗字御免となる、翌七年六月金百兩廳に献し尋て藩の浮組に召抱へられ出仕す、安政六年十月一月歿す、年六十二。 — 君津郡教育会、君津郡教育会 (1927, p. 469) 朝生家は蔵玉村の組頭であり、朝生惣右衛門は発起人の一人であり中心人物でもあった:322。1927年に作成された「千葉県君津郡誌」では上記のように記されている:469。朝生惣右衛門は建設費用として各々の村から支払われた630両のうち350両を負担したとされる:325。しかし、完成後7年間は年貢を免除されており、島立, 西谷 & 大久保 (2014)はこの期間でその費用を回収したと指摘している:327。
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