草創期、戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:53 UTC 版)
早稲田野球部監督だった飛田穂洲の指導を受けながらチーム力を上げ、1921年に東京六大学野球連盟の前身である四大学野球連盟(当時)に加入した。五大学時代から通して優勝できずにいたが1931年秋季、菊谷正一・辻猛(のち4連覇時の監督)の両投手の活躍により悲願の初優勝を遂げる。初優勝の翌年には約3か月間の米国遠征を行った。この遠征は、ポール・ラッシュ教授と大学体育主事であったジョージ・マーシャル教授が企画したものであった。選手たちは米国各地を回り、アイビーリーグの優勝校であるイェール大学とも対戦し、8-1で勝利するなどの戦績も収めた。遠征のハイライトであるニューヨークでは、ヤンキースの試合を観戦した後、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらも出席して歓迎会が開催され、スポーツを通じ日本とアメリカの友好関係を深めた。ポール・ラッシュは日本で多くのスポーツ振興を行い、戦争で中断していた高校野球夏の甲子園大会を終戦翌年に復活開催させている。 年間1シーズン制だった1933年には菊谷の好投に加えルーキー景浦將の猛打が加わり2度目の優勝を果たす。この2回の優勝は監督を置かず部員たちによる自主運営で勝ち取った栄冠であり、こうした例は(六大学では)その後1例しかないことからも特筆される。1940年春季には慶應・明治と3校同勝率で並んだもののプレーオフは行われず優勝預かりとなったため、戦前の優勝はこの2回のみだった。1942年を最後にリーグ戦が中止となるとユニフォームのロゴをローマ字から漢字に変え、同好会として明治や早稲田と練習試合を行うなど活動は続けていたが1944年をもって一時休部となった。
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