苫小牧進出まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:15 UTC 版)
「王子製紙 (初代)」の記事における「苫小牧進出まで」の解説
当初王子工場では襤褸や破布、次いで稲藁を紙の原料に使用していたが、欧米の製紙業で普及しつつあった木材パルプ、特に亜硫酸パルプ(サルファイトパルプ、SP)の生産を目指して森林地帯の静岡県西部に1889年(明治22年)気田工場を新設する。日本で最初の本格的SP製造工場であった。 1890年代中頃になると、主要融資元から第一国立銀行が降り、代わって三井銀行が主要融資元となった。さらに三井は経営権掌握を目指して三井銀行出身の藤山雷太を1896年(明治29年)に専務として送り込んだ(藤山以降1946年(昭和21年)まで三井系の経営者が続いている)。1898年(明治31年)には渋沢が会長を辞任、創業期からの技術者であった大川平三郎も会社を去った。大川とともに一部の技術者や熟練工も会社を去ったため人材不足となり、操業の混乱を招いて、後発の富士製紙(1887年(明治20年)設立)に国内洋紙生産量首位の座を同年明け渡した。 日清戦争後の新聞用紙の需要増大に触発され、1899年(明治32年)静岡県西部に中部工場を新設、工場を3か所に増強した。中部工場はSPに加えて砕木パルプ(グランドパルプ、GP)の生産設備も備えたが、工場の成績は不振を極め、市況の悪化とも重なって経営を悪化させる要因となった。 経営再建のために、三井から新たに鈴木梅四郎が専務として送り込まれた。鈴木は財務整理を断行し、さらに北海道への進出・大工場建設を目指した。新工場の用地は、豊富な木材資源や支笏湖水流の水力発電による電力を利用できる苫小牧村(現・苫小牧市)が選ばれた。苫小牧工場は1910年(明治43年)に操業を開始、品質改善やコスト削減を実現させた。以降同工場は王子製紙の主力工場となっていく。操業開始2年後の1912年、富士製紙を抑えて再び国内洋紙生産量首位に返り咲いた。
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