花園天皇と宋学
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花園天皇は学問を良く修めたが、中でも宋学に深く通じていた。 たとえば、『花園院宸記』元応3年(1319年)閏7月22日条によれば、持明院殿で行われた『論語』の談義に、日野資朝や菅原公時らの学者官僚に混じって、玄恵らの宋学に通じた僧侶も参加し、花園院は特に玄恵の説くところを「誠に道に達するか」と讃えている。 同じく『花園院宸記』によると、元享元年(1321年)4月20日には『孟子』を読み、「情感の至り、説き尽くすべからず」「豈に悦ばざんや」と述べている。『孟子』は程顥や程頤によって顕彰され、急激に評価が高まり、朱熹によって『大学』、『中庸』、『論語』と共に「四書」の一書とされた。 「誡太子書」の中では、紂王の例を持ち出して帝徳の涵養に努めるべきことを説いている。 元享2年(1322年)3月27日に、花園院は『論語』の談義を行ったが、その際に用いられた漢籍の中に「精義(朱熹の『論語精義』)」や「朱氏竹隠注(竹隠は朱熹の経学を日本に伝えた李用の号)」があった。 日野資朝は、後醍醐天皇が親政を開始する以前は、父の日野俊光と共に花園天皇に仕えていた。『花園院宸記』元応元年(1319年)閏7月4日条では、政道の学問に7、8年間励んだものの、多くの者と談じても得心のいかなかったことが、資朝と談じることで初めて「意を知る」者に出会えたと述べられている。資朝は後醍醐に仕えた後も持明院殿への出入りを許されている。 後醍醐天皇が内裏で行っていた学問は、『周易』や「四書」(つまり宋学)を重んじていたが、『花園院宸記』では「(後醍醐が日野俊基を日野家の家格を考慮せずに五位蔵人、右少弁に抜擢したことについて)諸人、唇を返す(悪口を言うこと)」、「口伝無きの間、面々に自己の風を立(てている)」、「理学を以て先となし、礼儀に拘らざる」と述べ、「近日の弊なり」と批難している。
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