花園天皇と宋学とは? わかりやすく解説

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花園天皇と宋学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:39 UTC 版)

花園天皇」の記事における「花園天皇と宋学」の解説

花園天皇学問良く修めたが、中でも宋学深く通じていた。 たとえば、『花園院宸記元応3年1319年)閏7月22日によれば持明院殿行われた論語』の談義に、日野資朝菅原公時らの学者官僚混じって玄恵らの宋学通じた僧侶参加し花園院は特に玄恵説くところを誠に道に達するか」と讃えている。 同じく花園院宸記』によると、元享元年1321年4月20日には『孟子』を読み、「情感至り説き尽くすべからず」「豈に悦ばざんや」と述べている。『孟子』は程顥程頤によって顕彰され、急激に評価高まり朱熹によって『大学』、『中庸』、『論語と共に四書」の一書とされた。 「誡太子書」の中では、紂王の例を持ち出して帝徳涵養努めるべきことを説いている。 元享2年1322年3月27日に、花園院は『論語』の談義行ったが、その際用いられ漢籍中に精義朱熹の『論語精義』)」や「朱氏竹隠注(竹隠は朱熹経学日本伝えた用の号)」があった。 日野資朝は、後醍醐天皇親政開始する以前は、父の日俊光と共に花園天皇仕えていた。『花園院宸記元応元年1319年)閏7月4日条では、政道学問7、8年間励んだものの、多くの者と談じて得心のいかなかったことが、資朝と談じることで初めて「意を知る」者に出会えたと述べられている。資朝は後醍醐仕えた後も持明院殿への出入り許されている。 後醍醐天皇内裏行っていた学問は、『周易』や「四書」(つまり宋学)を重んじていたが、『花園院宸記』では「(後醍醐日野俊基日野家家格考慮せず五位蔵人右少弁抜擢したことについて)諸人、唇を返す悪口を言うこと)」、「口伝無きの間、面々自己の風を立(てている)」、「理学を以て先となし、礼儀に拘らざる」と述べ、「近日の弊なり」と批難している。

※この「花園天皇と宋学」の解説は、「花園天皇」の解説の一部です。
「花園天皇と宋学」を含む「花園天皇」の記事については、「花園天皇」の概要を参照ください。

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