興津彌五右衛門の遺書とは? わかりやすく解説

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興津弥五右衛門の遺書

作者森鴎外

収載図書近代歴史小説世界
出版社桜楓社
刊行年月1986.4

収載図書鴎外全集 第10巻 小説 戯曲 10
出版社岩波書店
刊行年月1987.9

収載図書森鴎外全集 4 雁 阿部一族
出版社筑摩書房
刊行年月1995.9
シリーズ名ちくま文庫

収載図書近代短編 10
出版社笠間書院
刊行年月1997.4

収載図書編年体大正文学全集 第1巻 大正元年
出版社ゆまに書房
刊行年月2000.5

収載図書鴎外歴史文学第2巻 阿部一族大塩平八郎堺事件ほか
出版社岩波書店
刊行年月2000.10

収載図書阿部一族 他二篇
出版社岩波書店
刊行年月2001.1
シリーズ名ワイド版岩波文庫

収載図書山椒大夫高瀬舟 77改版
出版社新潮社
刊行年月2006.6
シリーズ名新潮文庫

収載図書阿部一族―他二篇 改版
出版社岩波書店
刊行年月2007.12
シリーズ名岩波文庫


興津弥五右衛門の遺書

読み方:オキツヤゴエモンノイショ(okitsuyagoemonnoisho)

作者 森鴎外

初出 大正1年

ジャンル 小説


興津弥五右衛門の遺書

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 07:32 UTC 版)

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興津弥五右衛門の遺書』(おきつやごえもんのいしょ)は、森鷗外短編小説江戸時代の随筆「翁草」中の「細川家の香木」を素材とし、1912年乃木希典殉死直後に初稿が発表され、翌年改作された。鷗外が歴史小説を書く端緒となった作品と言われている。

経緯

1912年9月13日に行なわれた明治天皇大喪の礼に出席した帰りに乃木大将の殉死の報を受ける。一般国民の多くは殉死を賛美する一方、報道機関や知識人の一部には否定的な論調があり、また乃木の遺書はなかなか公表されず、公表されたものは一部改竄されていた。そのような騒動の中、鷗外は同作の執筆に取り掛かり、9月18日に青山斎場で行なわれた乃木の葬儀の帰りに中央公論に原稿を渡した[1]。翌10月に掲載されたが、史実に関する資料整理を行なったうえで、翌1913年(大正2年)春に改作した。

本作執筆後の半年の間に、同様の歴史小説『阿部一族』と『佐橋甚五郎』を執筆し、1913年6月に3作をまとめた歴史小説集『意地』を出版した[1]

内容

長い間死に処を求めていた弥五右衛門が先君の十三回忌にその後を追って自殺した際の遺書として書かれている。

脚注

  1. ^ a b 山崎一穎「鷗外・「意地」論考」『跡見学園女子大学紀要』第7号、跡見学園女子大学、1974年、 1-14頁、 ISSN 03899543NAID 110004645643

関連項目

  • 高桐院 - 弥五右衛門の墓がある。

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