自由統一党の結成
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「スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵)」の記事における「自由統一党の結成」の解説
第一次ソールズベリー侯爵内閣ははじめアイルランド国民党との連携を重視したが、1885年11月から12月にかけての総選挙(英語版)で自由党が過半数割れしたことで、アイルランド強圧法の再制定を目指すようになった。これに反発したアイルランド国民党はアイルランド自治に前向きになったグラッドストンとの連携に動き、1886年1月27日の政府の施政方針演説に対する自由党の修正動議に賛成票を投じた。一方ハーティントン侯爵はアイルランド自治に反対し、18名の議員とともにグラッドストンに造反して、この修正動議に反対票を投じた。 しかし修正動議は可決してソールズベリー侯爵内閣は総辞職を余儀なくされ、1886年2月に第三次グラッドストン内閣が成立した。グラッドストンはハーティントン侯爵に入閣を求めたが、彼は「もはや党の統一のために自分の信念への誠実を犠牲にする段階は終わった」と返答して拒否した。新急進派のチェンバレンは自治大臣(英語版)として入閣したものの、彼もアイルランド自治には慎重であり、結局5月26日には辞職して閣外へ去った。 以降、ハーティントン侯爵とチェンバレンと野党保守党は声を合わせてグラッドストンが提出したアイルランド自治法案を批判した。その結果、同法案は6月8日の庶民院第二読会で否決された。ただホイッグ派も新急進派も分裂しており、採決の際にハーティントン侯爵やチェンバレンに従って反対票を投じた自由党議員は13名にとどまっている。彼らは自由党を離党して新党自由統一党を結成した。同党は庶民院議員をハーティントン侯爵とチェンバレンが二人で指導し、貴族院議員をダービー伯爵が指導する体制を取っていた。 アイルランド自治法案の否決を受けて議会を解散したグラッドストンだったが、1886年7月の総選挙(英語版)の結果、保守党が316議席、自由党が191議席、アイルランド国民党85議席、自由統一党が78議席をそれぞれ獲得し、グラッドストンは惨敗した。保守党も過半数には届かず、自由統一党がキャスティング・ボートを握ることとなった。 保守党党首ソールズベリー侯爵はハーティントン侯爵に首相の座を譲るので保守党と自由統一党の連立政権を作ろうと申し出たが、ハーティントン侯爵は自由統一党は閣外協力にとどめたいと返答した。依然として新急進派としての主張を取り下げていなかったチェンバレンの自由党帰りを警戒したためという。 1891年12月21日に父の死によりデヴォンシャー公爵位を継承し、貴族院議員に列する。1892年にはガーター勲章の叙勲を受けた。
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