自由統一党へ移籍と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/14 03:19 UTC 版)
「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の記事における「自由統一党へ移籍と死去」の解説
第三次グラッドストン内閣(1886年)への入閣は拒否した。同内閣がアイルランド自治の方針を掲げていたためだった。ダービー伯爵はいつかアイルランド人が自治を獲得することは疑っていなかったが、今は時期尚早と考えていた。アイルランド自治に反対するジョゼフ・チェンバレンやハーティントン侯爵が自由党を離党して自由統一党を結成すると、ダービー伯爵もそれに参加した。ダービー伯爵は同党の貴族院議員の指導にあたった。 1891年に公的生活から引退した。同年、インフルエンザをこじらせ、回復することなく1893年4月21日に死去した。ノーズリー教会に葬られた。子供がないため、爵位と家督は弟のフレデリックが継承した。
※この「自由統一党へ移籍と死去」の解説は、「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の解説の一部です。
「自由統一党へ移籍と死去」を含む「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の記事については、「エドワード・スタンリー (第15代ダービー伯爵)」の概要を参照ください。
- 自由統一党へ移籍と死去のページへのリンク