自由統一党結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 01:35 UTC 版)
「ジョゼフ・チェンバレン」の記事における「自由統一党結成」の解説
グラッドストンのアイルランド自治法案は議会に提出されたものの、チェンバレンら新急進派、ハーティントン侯爵らホイッグ派の造反によって6月に否決された。 ここにきてチェンバレンは新急進的な政策を取り下げて、長年の敵対勢力であったホイッグ派に接近し、両派閥を合同して新党自由統一党を結成した。自由党全国連盟も分裂し、連盟の大半は党首グラッドストンに従ったものの(これを機に連盟本部もバーミンガムからロンドンへ移される)、バーミンガム自由党連盟など一部はチェンバレンを支持して「バーミンガム自由統一党連盟 (Birmingham Liberal Unionist Association)」を結成した。 ホイッグ派との連携について無節操との批判が続出する中、チェンバレンは「私は、絶対的な節操などという徳は政治家にとって必要ではないと信じています。政治家たるもの、情勢の変化に応じて意見を変えていかなければならない義務もあるでしょう」と反論している。 アイルランド自治法案の否決を受けて議会を解散したグラッドストンだったが、1886年7月の総選挙(英語版)の結果、保守党が316議席、自由党が196議席、自由統一党が74議席、アイルランド国民党85議席をそれぞれ獲得し、グラッドストンは惨敗した。
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