自動車部門との分離まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 00:10 UTC 版)
「トライアンフ・モーターサイクル」の記事における「自動車部門との分離まで」の解説
トライアンフの生産したオートバイはやがて1907年からはじまったマン島TTレースで活躍、その完走率の高さで高い信頼性を見せ、高品質かつ比較的安価であるという評価を獲得する。その後1914年からはじまった第一次世界大戦では、3万台以上のモデルHがイギリスおよび連合軍の軍用車として使用され、その頑丈さと走破性から高い評価を受けた。 だが第一次世界大戦終結後は人員不足から新規車種の開発が遅れ、他社との競争で不利を強いられて業績が低迷する。低迷打破のために当時著名なエンジン技術者であったハリー・リカルド(英語版)によるOHV4バルブエンジンを搭載した高性能車モデルRが1921年に投入されるが、生産コストがかかり高価格にならざるを得ないこの車種は販売が振るわず、1923年の超低価格車モデルPの登場と成功までは低迷が続くことになる。 1920年代には自動車会社・ドーソンのコヴェントリー工場を購入しており、1923年、「トライアンフ・モーター・カンパニー」として、4輪自動車を発売した。 1929年の世界恐慌により再び業績が悪化したトライアンフは、1932年には自転車部門をラレー自転車(英語版)に売却。オートバイ部門では新たな主任技師ヴァル・ペイジ(英語版)を迎えて新規車種の開発をはじめた。1934年には社名を「トライアンフ」(Triumph Co.Ltd )へ変更して改革を推し進めようとするが、自動車部門が財政を圧迫する。1936年、オートバイ部門は自動車部門から切り離され、オートバイ会社・アリエルを再生させた実業家、ジャック・サングスター(英語版)に買収された。
※この「自動車部門との分離まで」の解説は、「トライアンフ・モーターサイクル」の解説の一部です。
「自動車部門との分離まで」を含む「トライアンフ・モーターサイクル」の記事については、「トライアンフ・モーターサイクル」の概要を参照ください。
- 自動車部門との分離までのページへのリンク