膳氏との関連
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/20 05:26 UTC 版)
膳氏(かしわでうじ)は皇室や朝廷の御饌(みけ)を担当した伴造氏。後になり高橋氏と改めた。膳氏の出自を示した『高橋氏文』には、景行天皇が東国に行幸したおりに、安房国にて磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと、膳氏の始祖とされる)が蛤を捕り、天皇に料理をして献上したところ、天皇の子孫代まで御食(みけ)を供するよう膳臣を授かったという記述がある。 『高橋氏文』そのものが高橋氏の正統性を誇示する目的と考えられるため、全てを史実として受け入れることは困難である。しかし、膳氏(高橋氏)が6世紀には膳職の伴造の地位につき、東国とのゆかりが深いとする説が有力である。 『高橋氏文』には始祖の磐鹿六雁命が死去した際に、「稚桜部」(わかさくらべ)の号が送られたとの記述がある。若狭の地名は「稚桜部」が由来であるとする説があり、若狭国との関係も窺える。実際に福井県の膳部山は膳氏の名前が由来であると言われ、膳部山周囲に多数の前方後円墳が残る。このため、一部では膳氏は5世紀から6世紀には若狭周辺の支配者であったとする説が支持されているが、そもそも若狭国造は膳氏と同じく阿倍氏同族である。 また8世紀以降で高橋人足、高橋子老、高橋安雄の三名が若狭国の国司に任命されており、律令制成立以後は、内膳司が直接支配した地域である。しかし高橋氏文の信憑性の程度とともに、膳部山の記載は江戸時代に初めて登場し、膳氏と膳部山との関連性は低いと主張する説もある。 一方、高橋氏は、幾つかの例外を除き、奈良時代から平安時代と長期にわたり志摩国の国司を世襲している。律令制下の一氏族による国司世襲は、きわめて例外的であった。志摩国の国司と内膳司が兼任していたことは、志摩国が御贄を貢ぐことを義務付けられていた「御食国」だったことを示しているといえる。
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