職能民の奉仕
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 04:23 UTC 版)
12世紀末に鎌倉幕府が成立すると、武家の棟梁である将軍が独自の政治的権限と政務及年中行事の体系を「公事」(政務としての)として構築し、家臣である御家人に対して「公事」を賦課した。 御家人は将軍から守護・地頭などに任命されて所領を安堵され、平民百姓に対する公事の負担を免除されるなどの保護を受けており、その代償として御家人役と呼ばれる各種の公事を負担したのである(御恩と奉公)。御家人に対する公事は人的なものを除いては、政所を通じて金銭で徴収された。これを特に関東公事と呼ぶ。 同じ頃、天皇や院、寺社、摂関家などの他の権門に仕えていた神人・寄人・供御人などの非農業民である職能民に対して、本来在家として課される公事を免除される(免在家)とともにその代償としてそれぞれの職能に応じた奉仕を行い、これも「公事」と称した。後にこれは商人などの同一職能民によって編成された座に対する公事へと発展することになる。 室町幕府が成立すると、守護領国制が確立されていく過程で公家や寺社などの荘園領主は守護の軍事力に依拠しなければ年貢・公事の徴収が困難となり、反対に守護はその立場を利用して国内の荘園・公領に段銭などの形で独自の公事を賦課することで領国支配の強化と財政基盤の構築を図るようになった。 また、守護は室町幕府が諸国の守護に賦課した守護役も同じ様に国内の荘園・公領へと転嫁していったが、征夷大将軍であった足利義満が南北朝合一と太政大臣就任を果たして公武の最高権力を掌握すると、室町幕府(=義満)から諸国に出された守護役は朝廷からの賦課と同様にみなされるようになり、「公事」「公方役」と称されるようになった。
※この「職能民の奉仕」の解説は、「公事」の解説の一部です。
「職能民の奉仕」を含む「公事」の記事については、「公事」の概要を参照ください。
- 職能民の奉仕のページへのリンク