美術村の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 04:52 UTC 版)
1945年ハンナ海軍少佐らはまた、沖縄戦で生き残った画家や芸能人を具志川市(うるま市)栄野比の米国軍政府周辺に集め、収容所への慰問の劇団を組織し、また画家には米軍人の土産物としての肖像画や絵葉書の製作等にあたらせた。こうして東恩納博物館とならび東恩納美術村が形成された。 1947年7月、東恩納に集められた画家達は、沖縄美術家協会を結成し、米国民政府の玉城への移転に際して、美術村の首里での移転を希望し、米軍を説得し西森美術村建設を実現させた。西森(ニシムイ)はかつて松林で有名な景勝地であったが、日本軍陣地構築のために松原は刈り取られ、沖縄戦で焼失後は、米軍の占領地となり道路建設のためのコーラル採掘場にもなっていた。 1948年4月から12月にかけ、アトリエや住宅、陳列場を兼ねた大型コンセット3棟が完成、最初に屋部憲・名渡山愛順・大城皓也・金城安太郎・具志堅以徳・山元恵一・玉那覇正吉・安谷屋正義の8人とその家族が移住し、戦後の美術活動復興の原点となった。 琉球舞踊家の島袋光裕は、ハンナが沖縄戦の戦場から生き残った芸能関係者を集め、皆を前に「沖縄はすべてがなくなってしまった。残っているのは音楽と芸能だけだ。その素晴らしい文化をどうにかして保存しようじゃないか」と語ったという話を回想している。一年間で軍民合わせて287回の慰問演劇公演をして回り、また人気の演目だけではなく古典舞踊も披露するように求められた。 1946年12月、台湾からの引き上げ戦で沖縄に到着した川平朝清は、東恩納博物館で通訳や翻訳の仕事に従事した。その後、沖縄のアナウンサー第一号となり、琉球放送局AKAR(琉球の声)の開局に尽力した兄の川平朝申とともに戦後の沖縄のラジオとテレビ局の形成に尽力した。
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