美術教育への考え方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 02:36 UTC 版)
松本は1982年出版の松本キミ子・堀江晴美共著『絵のかけない子は私の教師』(仮説社)のはしがきで「新しい美術教育の夜明けを宣言する」として、次のように述べている。 美術の教育にたずさわる者達は、現代作家の流行を追ってまねるか、彼らの仕事に何か深遠なる意味があるかのように誤解している。 おとなの絵と子どもの絵を区別し、子どもの大胆で単純でしかも幼稚である絵をもって「子どもらしい素直な感情が表われているからいい絵だ」と評価してきた。そしてそれが、現代美術教育のはなばなしい成果であると、誇大に宣伝してきたのではなかったか。 美術教育の主流は、絵を描く方法を分析的部分的にとらえ、全体的・綜合的にせまる「ものへの主体的な問いかけ」を全く忘れてしまっている。すべての人たちは「作者の絵を描く喜びと、できあがった作品の生命感」を決定的には重視していない。 もしも、現代作家の作品群、あるいは児童の展覧会の作品群に疑いをもつ人なら、私のこの方法をわかってくれるだろう。それ以上に、絵を描けない思いをさせられてきた無名の大勢の人たちは、きっと信じてくれるだろう。 もし、あなたが私のこの方法を信じ、その通り絵を描くなら、ただちに描けるようになるだろう。そして描いた人自身が信じられない、見た人も信じられない程のすばらしい生命感にあふれる作品が生まれるだろう。年齢にかかわりなく、ただ人間という誇りをもっている人なら誰でも満足できる、そういう作品がきっとできることを私は確信している。 そしてあなたがこの方法の原理を納得し、他人に伝えたいと思うなら、いつでもどこでも、ただちに他人に説明ができるようになるだろう。そしてあなたは絵を描く喜びを通じて、この地球上に多くに友人をもつことができるあろう。 絵が描ける喜びは、どういうことかを教えてくれたのも産休補助教員をしていたときに出会った小中学生だ。絵が描けるということは、まず描いた作者が、例えばりんごを描いたら、りんごに見えるものが描けたたと思えること。そしてその絵を「私の描いたりんごの絵を見て」と誰かに見てもらう。その絵を見た作者以外の人に「わあ、おいしそうなりんごが描けてる」と言ってもらえることだ。この2つがあって始めて絵を描けた喜びがくる。
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