綾小路有長とは? わかりやすく解説

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綾小路有長

読み方あやのこうじ ありなが

幕末・明治公卿。俊資の子仕えて正二位権大納言に至る。家の学である郢曲伝統を守るかたわら歌書能くした。明治14年(1881)歿、90才。

綾小路有長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/08 17:56 UTC 版)

 
綾小路有長
綾小路有長肖像写真
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 寛政4年4月14日1792年6月3日
死没 明治14年(1881年2月12日
墓所 谷中霊園乙6号5側
官位 正二位権大納言
主君 光格天皇仁孝天皇孝明天皇明治天皇
氏族 綾小路家
父母 父:綾小路俊資
宇野氏
俊子(豊岡随資室)、綾小路俊賢、珠子(山内豊誠室)、竹子
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綾小路 有長(あやのこうじ ありなが、寛政4年〈1792年〉 - 明治14年〈1881年〉)は、江戸時代後期、明治時代公卿華族綾小路家14代当主

略歴

光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)・孝明天皇(121代)・明治天皇(122代)の4代に渡って仕え、正二位権大納言まで昇った。

家の学である郢曲の伝統を守るかたわら、歌書を能くした。

また日光例幣使に選出されたことがあり、玉村宿(群馬県佐波郡玉村町)の本陣であった木島家裏庭に有長が1843年天保14年)この本陣にて

「玉むらのやどりにひらく玉くしげふたたびきそへかへさやすらに」

と歌った和歌一首が1864年文久4年)に建立された石碑に刻まれ現存している[1][2]

1871年(明治4年)雅楽局神楽人を勤めた。

歌会始(当時は「歌御会始」)では「発声」の役を最晩年に至るまで務め、明治天皇から褒賞を受けている。

官歴

系譜

  • 父:綾小路俊資
  • 母:不詳
  • 妻:宇野氏
  • 生母不明の子女
    • 女子:俊子 - 豊岡随資室
    • 男子:綾小路俊賢
    • 女子:珠子 - 山内豊誠継室
    • 女子:竹子

参考文献

  1. ^ 群馬県教育委員会文化財保護課 編『日光例弊使街道』群馬県教育委員会〈群馬県歴史の道調査報告書〉、1979年3月、11頁。doi:10.24484/sitereports.101967 
  2. ^ 町史跡 : 木島本陣跡歌碑(きじまほんじんあとかひ)〈下新田〉”. 玉村町ウェブサイト. 玉村町 (2019年3月5日). 2024年4月27日閲覧。 “通例、日光例幣使の帰路は東海道を通りますが、往路だけでなく、帰路も日光例幣使道を利用した参議綾小路有長が書き残した和歌が石碑となって当時の名残を止めています。”

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