経験・観測の問題として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 04:16 UTC 版)
「ゼノンのパラドックス」の記事における「経験・観測の問題として」の解説
ウィリアム・ジェームズは言う。「ゼノンやカントの論理的矛盾は、定義によって、無限な項の系列が終点に到達しうるまでのあいだ継続的に数えられねばならない場合には常に真理である。」「ラッセルの説は真の困難をたくみにそらしているように思われる。」ラッセルは競争が終わったところから問題を見ているが、真の困難は「通過せねばならない間隔が永久に再生産され続けて進路を阻んでいる場合に、目標点に到達すること」に他ならない。連続量の持つ無限という問題を避ける手っ取り早い方法は、そうした概念を捨てること。「現実の変化の過程を連続的過程として扱うのでなく、有限な、無限小ではない段階によって起こるものとして扱えばよい。」 中村秀吉は、ジェームズに同意し、「自然はある意味で、無限の分割を嫌う。」「われわれは『自然は飛躍せず』のモットーを運動に具体化することによって、無限の操作を現実に必要とするような事態を経験的世界から放逐することができる。こうしてゼノンの分割とアキレスと亀のパラドックスは成立しなくなるのである。」というのも、無限数列Zの各項にオンオフを対応させる無限に振動する連続関数はある。しかしそれは、上限において連続であっても、導関数は上限において連続にならず、実在の運動ではないと言える。 無限小量によって運動を捉えることができると、ウィリアム・マクローリン(英語版)とミラー(Sylvia L. Miller)は言う。時空間を、超準解析の定式化の一種である内的集合論(英語版)の中でモデル化することで、ゼノンの論駁から逃れる運動論を展開できる、とする。認識論的原理として次のものが置かれる: 物体が位置することのできる時空間の各点は実数値の座標によって記述される。ただし、我々は内的集合論の中でモデル化しているから、実数の中には無限小や無限大といった超準的な実数も含まれている。 物体が超準的な座標を持つ点に位置するとき、その対象の位置は確証できない。例えば、物体が零でない無限小の空間座標を持つ位置にあるとき、その物体は空間座標 0 の点に位置すると我々は誤解するかもしれない。 物体の運動は区別可能な2点に位置することによって確証される。例えば、物体の空間座標が(異なる時点に於いて) 0 から正の無限小に変化するとしても、その物体が運動していることは確証されない。しかし、0 から 1/2 に変化するならば、その物体が運動していると確証できる。 この原則に基づけば、「私たちが観察できない状況に対しては説明する責任がない」、「チェックポイントの列の外にある微小世界での運動に関する仮説が成り立つ余地があり、...運動という考えを追放する理由はない。」と主張する。山川偉也は、しかし、このような議論では、「ゼノンを論駁できないと思います」と評する。 ゼノンの議論が提起する問題を、論理的・数学的なものと限定せず、物理的・実在的過程の問題でもあるとして、あるいは多のパラドックスと関係づけて、意味のあるものとして捉えようとする論考は、他にもいくつか提出されている。アドルフ・グリュンバウム(英語版)、とかウェスリー・サモン(英語版)らを挙げることができる。
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