経済・社会変化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 07:20 UTC 版)
廃藩後、大藩の城下町としての需要がなくなった仙台は、深刻な不況に落ち込んだ。1872年(明治5年)に、明治新政府によって六仲間の特権は廃止された。 明治政府は仙台を東北地方の政治・軍事の中心都市と位置づけたが、仙台商工業の不振はなかなか挽回できなかった。地価でみると、地租改正のために作られた1877年(明治10年)の宮城県庁見込み地価は、市内で高い順から大町四丁目、国分町、大町三丁目、河原町、大町五丁目、大町二丁目、大町一丁目となっており、明治初めまでは芭蕉の辻を中心に大町全体が栄える江戸時代の序列が維持されていた。 市内では、武家屋敷での商業禁止の廃止や、町の特権の廃止により、他の地区の発展の機会が開けた。1887年(明治20年)に鉄道が開通すると、駅に近い方向に町の重心が移った。こうした変化をうけて、もと武家屋敷だった東一番丁や、駅に近い新伝馬町が新興商店街として台頭してきた。大町の中では芭蕉の辻から駅に近い大町五丁目に商店街の中心が移動した。ただ、この時代の大町におきたのはオフィス街に向けた変化であって、商店街の要素が減ったことをもって商業地としての凋落とは言えないところがある。 問屋にかわって商店街の顔になったのは、1882年(明治15年)にできた芭蕉の辻勧工場(後に芭蕉の辻商館)、明治34年(1901年)に伊沢商館といった勧工場(百貨店の前身となる大規模店)であった。地元の小売店舗からは、呉服店の大内屋が1879年(明治12年)に一丁目から五丁目に移った。同業の藤崎も二丁目から四丁目を経由して五丁目に移転して、大内屋と向かいあわせになった。 江戸時代にあった店の大多数が、新しい店や移転してきた店に入れ替わったが、明治時代末の仙台の高額納税者は、藤崎三郎助(藤崎)、佐々木重兵衛(佐々重)、大内源太右衛門(大内屋)で、いずれも大町五丁目に店を構えた老舗の小売店舗の主であった。
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