経営立て直しと内紛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:25 UTC 版)
「東京乗合自動車」の記事における「経営立て直しと内紛」の解説
1931年(昭和6年)、堀内良平が社長に就任した。堀内の仕事は、渡辺家への債権回収と経営の立て直しであった。それ以前より問題発覚後は東京乗合自動車の株式配当を無配とし、役員賞与も取りやめた。 堀内は社長就任前後から東京市電気局に対して身売り交渉を行っていた。堀内は950万円前後の評価額を示したが、東京市側は800万円の査定額で譲らず、身売りは暗礁に乗り上げた。1931年(昭和6年)、東京乗合自動車は東京市営バスとの競合区間において1区7銭を5銭に値下げし、市営バスとの営業競争を挑んだ。 堀内は起死回生策として、傘下の京浜乗合自動車に建設計画中であった京浜新国道(第二京浜国道)の営業免許を獲得させようと奔走した。この際、有力政治家に献金したことを口実に、1931年(昭和6年)3月、社長の座を追われることになった。堀内の後任として重役の間で根津嘉一郎に社長の選任を一任することを取り決めた。しかし、委任状を取りまとめた取締役が自身の留任を危惧し、自分の息子など自派閥の人間を取締役に選任するクーデターが起きた。 同時期、石崎石三らが東京乗合自動車の株を買い占め、取締役についた。同年7月、堀内は相談役も辞し経営陣から去った。また若尾璋八も取締役を辞し、甲州系に属する人物が取締役会から一掃された。 堀内良平が去った後、経営の主導権争いが石崎石三の派閥と上林慶喜の派閥の間で表面化した。度々、臨時株主総会が開催され、頻繁に役員の交代が起きた。また臨時株主総会を招集した上林慶喜が公正証書不実記載で起訴されるという事態にまで発展した。 1933年(昭和8年)下期に兵庫県知事であった長延連が社長に就任して、経営陣がそっくり入れ替わった。 一方で1932年(昭和7年)7月に東京乗合自動車新宿営業所がストライキを実施。1933年(昭和8年)8月、労働争議が発生。1936年(昭和11年)9月、東京乗合自動車の従業員70人がストライキを実施した。
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