組閣失敗と枢密院議長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 15:05 UTC 版)
「鰻香内閣」も参照 1914年(大正3年)、シーメンス事件のあおりで倒れた第1次山本内閣の後を受けて、元老松方正義は徳川家達貴族院議長を奏薦し、3月29日に大命降下した。しかし徳川は受ける気はなく、同日中に元老は次の候補者を選定することになった。松方正義は清浦を提案し、山縣に説得を依頼した。清浦はこれを応諾し、政友会の協力を得るべく、同日夜に原敬との会談を行った。清浦は即位大礼の後に政友会政権を譲ることなどを条件に協力を求めたが、原は肯定的な回答をしなかった。3月31日に清浦は組閣の大命を受けた。諸政党は反発し、一時は政友会・中正会・立憲同志会・立憲国民党の四派合同で超然主義内閣の出現に反対する決議が行われる動きであったが、4月4日に同志会を除く三派が個別に決議を行う形となった。 それでも海軍大臣以外の人選は順調に進んだが、海軍は政友会に近い山本権兵衛前首相の影響下にあり、後継海相の選出は難航した。ようやく加藤友三郎中将と交渉を行うことになったが、加藤は新造艦の費用支出のため、内閣による責任支出を行うか臨時議会の開催を要求した。清浦は憲法の規定から組閣前に約束はできないと拒絶した。清浦は加藤と齋藤実海軍大臣に後継推薦を願ったが、「何人も加藤同様ならん」と拒絶された。組閣が不可能となった清浦は大命を拝辞した。世間ではこれを「鰻香内閣」と呼んだ。これは清浦自身の回想によれば、組閣が難航していることを質問された清浦が「大和田の前を通っているようなもので、匂ひだけはするが、御膳立てはなかなか来ないわい」と言ったことがもととなったとされる。 1922年(大正11年)2月に山縣が没すると、後任の枢密院議長に就いた。高橋内閣が倒れた際には、「憲政の常道」に従って、第二党である憲政会の加藤高明を首相とするべきであるという意見を元老松方正義に伝えたが、もうひとりの元老西園寺公望には容れられなかった。
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