管郷と郡家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 07:27 UTC 版)
文献史料における初見は天平宝字5年(761年)12月23日付甲斐国司解『正倉院文書』で、『日本後紀』延暦16年(797年)3月2日条には甲相国境争論における国境策定で「都留郡□留村東辺砥沢」の地が国境に定められたと記されている。 管郷は相模川流域にかけて分布するが、甲相国境にあたる相模郷は『日本後紀』に見られる「□留村」「辺砥沢」の解釈を巡り郷域の比定に論争がある。江戸時代後期の地誌『甲斐国志』(以下『国志』)や萩原元克『甲斐名勝志』(以下『名勝志』)、また明治期に編纂された『日本地理志料』などは「□留村」を「鹿留(ししどめ)村」、「砥沢」を「戸沢」と解釈し、これらの地名を現在の都留市域に比定しており、郷域を山梨県上野原市秋山地区から道志村付近とし、この地域が延暦16年策定で相模国に編入され後に甲斐国に戻されたとしている。 また、明治期に編纂された地誌書『大日本地名辞書』では「□留村」を「都留村」と解釈し都留郷域に比定し、「砥沢」は相模国鮎川郡に属する相模郷域を神奈川県相模原市緑区名倉の「那倉沢」と解釈し市内藤野地区から相模湖地区にかけての地域を郷域とし、『和名抄』では旧籍に基づいて甲斐国の郡郷として収録されたとしている。 現在では後者の説が支持されており、文献史学では磯貝正義が都留郡の郡郷配置から相模郷は相模川本流域に比定されるのが妥当としており、考古学的にも藤野地区から相模湖地区にかけて奈良・平安遺跡が分布することから後者の説が支持されている。また、後者の説に関して八巻與志夫は「砥沢」を「といしざわ」と訓じ「といしざわ」が「どおし」に変化したとする解釈から、道志川を甲相国境とする説を提唱している。 郡家は甲斐四郡の代表郷にそれぞれ設置されたと考えられているが、都留郡では上野原市域に比定される古郡郷や都留郷がその地名から初期郡家が所在し、古郡郷から都留郷へ郡家が移転したと考えられている。古郡郷の郷域は『国志』以来甲相国境(上野原市上野原)、都留郷はその西に比定するのが通説となっており、もとは一つの郷であったのが分割されたとも考えられている。郡家を古郡・都留郷域に推定すると郡域において東辺に偏り東海道支路からも逸れることから異説もあり、『名勝志』『大日本地名辞書』などにおいて現在の都留市古河度を「古郡」の遺称地とする解釈から都留市域北部を郡家所在地とする説や、『綜合郷土研究』による大月市域西部を郡家所在地とする説もある。 考古学的には平安時代の集落遺跡である上野原市上野原の狐原古墳から「山」字を持つ焼きゴテが出土しており、古郡郷の中心集落であった可能性が指摘されているほか、群家推定地である大月市大月遺跡からも官衙建物群が検出されている。
※この「管郷と郡家」の解説は、「都留郡」の解説の一部です。
「管郷と郡家」を含む「都留郡」の記事については、「都留郡」の概要を参照ください。
- 管郷と郡家のページへのリンク