第6編の内容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/04 08:32 UTC 版)
聖人は晏然として体逝して終る。筆者の母の死は筆者に生死の消息に関する真実な人格的要求を触発させてくれた。その際に今まで親しんで居た荘子の死生観が改めて犇々と筆者の胸に湧き上がってきた。本篇執筆の由来である。 荘子は誤解されて居る。決して冷徹な理智一辺の人ではなくして、反対に偉大な情熱の人であった。彼の文章の奔放で難解なこともつまりはこの情熱のゆえである。豊富な想像力と、人生に対する鋭敏な感触とを有った南国の天才であった。天才の思想内容には、凡人の容易に参ずるを得ぬ特殊性を多分に含む。この特殊性は元来最も解釈し難いものであるが、荘子はその天才的思想を表現するに、彼の熾烈な情熱を以て直に他の心に向かって焼き付けようとした。彼の思想に厭世観があるというのはそれは真実である。その厭世観は俗に解する如き情意の惰弱に基づく歔欷ではなくて、理想に照らしての現実否定、現実を浄化し向上せしめんとする叱咤である。真の厭世観は道徳的向上の枢機である。小我を脱却して、大我――天と合致した人はこれを真人という。生けるだけ生きようとか、死にたいとか、死にたくないとか考えるのは、心を以て道を捐てるもの、或いは人を以て天に干渉(助ける)するものである。我に在って生々の理の行わるる間、即ち我は生きる。我に於て生々の理の息むとき、即ち我は死ぬ。死生は天地の運行の一部である。そこに何の喜憂があろうか。「聖人は晏然として体逝して終る。」つまり人間に生死が苦悩の種であることは、一に人間の我執に因る。我執を排脱せぬ限りは、生死の間に不可解な恐怖と暗黒との難関が横たわる。一度我執を脱却して、我と宇宙との関係を認識し、親ら宇宙の正しき位置に就き、宇宙の流に随順すれば、もはや生死というが如き問題はなくなる。我が生死を観ること晝夜の運行に等しい。即ち我という実在の小中心を宇宙という大中心に合一せしめるのである。彼に随えば万物は実在の無限の分化発展である。この意義の看得すれば万物は総て平等に存在の意義を有して居ることが分かる。彼を善しとし、これを悪しとするは、要するに人間の感覚の迷妄に過ぎぬ。本来唯一者の変化なる点に於て同一である。荘周夢に胡蝶となる。ひらひらと楽しげに舞うところ飽く迄胡蝶である。俄かに眼が覚めると、こはむくつけき周である。分からぬ、分からぬ。胡蝶の夢に周となるか。周の夢に胡蝶となるか。是れ全く造化の妙趣である。
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