第15代住友吉左衛門を襲名
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「住友友純」の記事における「第15代住友吉左衛門を襲名」の解説
1893年(明治26年)4月、住友15世をつぎ、隆麿を改め、住友吉左衛門友純と称した。のちに春翠と号した。1893年(明治26年)4月28日相続の式をあげ、以来家業を継承して、別子銅山の鉱業を経営し、神戸市に銅貿易をなし、また再製茶及び樟脳製造業を行い、滋賀県坂田郡醒ヵ井村において生糸業を営む、広瀬宰平が総理人としてあり、実際の経営に当たるが、友純は別子銅山を巡視し、各社を視察し庄司炭坑を買収した。 しかし、友純入籍の後、困難な事態が発生する。別子銅山で技師金矢某の事件があり、1886年(明治19年)金矢と支配人広瀬坦は罰せられ、山根製錬所の監督大島供清も罰せられた。1892年(明治25年)2月、別子支配人広瀬坦は辞し、宰平の甥久保盛明がかわる。しかし大島供清は宰平を失脚させるため、郷里尾道に帰り、5万円の借用を願う。忠隈炭坑の買収に宰平の非行ありとし、供清は退身勧告をなし、宰平に拒絶され、ついに宰平の弾劾上申書を家長に提出する。伊庭貞剛は単身別子山に上り、人々を鎮めるべく支配人久保盛明にかわる。 さらに新居浜に煙害問題があり、宰平弾劾が重なる。友純は大島供清を須磨別邸に引見した。供清は宰平退身の上申書をもって友純の前に出たが友純の説論をうけている。住友家にとり総理事あるいは最高幹部の人事は重大であり、まして宰平は大黒柱的存在であった。しかし友純は西園寺公望の力を借りて宰平の辞表を受け取り、同時に大島をも罷免して、喧嘩両成敗の形をもって取り収める。あとは、宰平の甥伊庭貞剛につがすということで、おそらく宰平を納得させたものである。
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