第1回~第3回押出しとは? わかりやすく解説

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第1回~第3回押出し

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 02:27 UTC 版)

川俣事件」の記事における「第1回~第3回押出し」の解説

足尾銅山による鉱毒被害増大すると、衆議院議員田中正造主導の下、1896年10月4日群馬県邑楽郡渡瀬村(現館林市)にある雲龍寺に、栃木群馬両県鉱毒事務所がおかれた。 農民らは結束して東京請願出かけることにし、1897年3月2日第1回請願が行われた。当時このような活動には名前がなく、農民らは東京大押出し呼んだ参加者2000人。農民らは、米を持参して徒歩数日がかりで東京向かった当時鉄道はあったが、鉱毒被害地から東京までの運賃が、鉱毒貧困化していた農民らにとっては非常に高かったため、徒歩という方法がとられた。第1回押出しは、榎本武揚農商務大臣との面会成功し榎本はこの直後現地視察行った。 しかし、榎本視察あまりにおざなりだと感じた農民らは、同1897年3月24日再度押出し行った。(実際には、榎本鉱毒被災地惨状大変に驚き第1次鉱毒調査委員会設置即決したことが分かっている)規模7000人と伝えられる途中川俣にあった浮き船が、警察によって外されており、怒った農民らは対岸まで泳いで渡って船をつないだ。(単に農民らの到着遅かったため、という説もある。当時夜更けには浮き船通常外されていた)しかし、途中岩槻町で、警察芳林寺押し込められた上に説諭され、惣代75名を除いて帰郷惣代らも、結局3名が農商務省にたどりいただけで、大臣には面会できずに帰った鉱毒調査委員会銅山設置命じた鉱毒沈殿池決壊し、再び鉱毒下流流れて被害及ぼしたことが主要な原因となり、第3回押出しが、1898年9月26日行われた。約10000人が、同様に雲龍寺起点東京向かった東京府南足立郡渕江村現東京都足立区)の保木間氷川神社まで、約2500名がたどりついた。ここで、憲兵隊警察による説得受けた。このとき、鉱毒事務所でも重要な役割担っていた田中正造説得当たった当時田中与党議員だったため、自身農商務大臣直接かけあうことで収拾つけられる考えていたとされる農民らは田中説得応じ惣代50名を残し帰郷した惣代らは、田中口利き当時大石正巳農商務大臣との面会には成功したが、直後政権崩壊田中野党議員となり、この面会は実を結ばなかった。

※この「第1回~第3回押出し」の解説は、「川俣事件」の解説の一部です。
「第1回~第3回押出し」を含む「川俣事件」の記事については、「川俣事件」の概要を参照ください。

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