第二期:中村弥左衛門時代 明治34年(1901)~大正14年(1925)
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「便利堂」の記事における「第二期:中村弥左衛門時代 明治34年(1901)~大正14年(1925)」の解説
弥二郎から事業を受け継いだ弥左衛門は、現在に至る便利堂の基礎を整えたと言える。まず第一には、明治38年(1905)にコロタイプ印刷所を開設したことである。コロタイプは明治21年に小川一眞によって日本にもたらされた精緻な印刷技法である。現在も刊行の続く美術雑誌『國華』の図版印刷に採用され、高品質で美しいコロタイプは、絵葉書や美術図書の口絵などに広く利用された。弥左衛門は、コロタイプ印刷所を開設するにあたり光村印刷所から技術者である内藤雄太郎を招聘して稼働を始める。第二は、絵葉書の企画制作である。日本では明治34年(1901)に私製はがきが解禁されたのを機にヨーロッパでの絵葉書ブームが伝来、明治38年(1905)に最高潮となるのだが、便利堂が発行した最初の絵葉書は明治35年(1902)の『帰雁来燕』である。明治38年(1905)からは多様な絵葉書を企画発行し、明治40年(1907)には書店を絵葉書店(「便利堂書店」から「便利堂絵葉書店」)へと変えて絵葉書ブームの中でその知名度を高めた。その当時の様子は、大阪毎日新聞の記者である大江素天の述懐をみると「便利堂の中村弥二郎氏が未練気もなくしにせの古い本屋をやめて絵葉書屋になった。私たちは毎日のように店頭に押しかけて月給袋の底をハタいたものである。ハタき足りない時は無論借金である。」(写真太平記)と人気店であったことが分かる。そして第三には、他所から絵葉書や図録制作を受注するビジネスを確立させたことである。絵葉書受注制作の第一号は、今日の記録で正確に判明しているものとして清水寺であり、明治40年(1907)のことである。そしてそれに続き法隆寺、萬福寺からの注文を受けて制作しており、また博物館図録としては、大正5年(1916)に京都帝室博物館(現京都国立博物館)から『古美術図録・全四冊』の注文を得ている。絵葉書ブームが下火となると共に、古美術の撮影・印刷という今日にもつながるメインストリームが始まったことがわかる。
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