立国憲議の提出
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明治3年(1870年)、宮島は太政官待詔院下局に出仕。ついで翌年10月には、立法諮問機関である左院の議官となる。明治5年(1872年)4月3日、左院議長・後藤象二郎に対し「立国憲議」を提出した。この建議は、日本では人民が権利と義務について正しく知らないため、まず国憲(憲法)を制定した後、民法や刑法を定め、しばらくこの憲法の下で右院(各省の長官・次官)と府県官員からなる会議を議院として政治を行い、人民の「開化ノ進度」が深まったら「真ノ民選議院」を設けて君民共治を盛り込んだ「至当ノ国憲」を制定するのが好ましい順序であると主張するものであった。外国留学経験はなく欧米諸国の制度に精通していたわけではない宮島であったが、加藤弘之の『真政大意』、福沢諭吉の『西洋事情』、中村敬宇の『自由之理』などを参考として書き上げたものと見られる。また天皇の大権を代行する政府のあり方として、過度に権力が集中する大蔵省の勢威を分散させるため、内務省の設立も建言している。しかし、左院副議長の江藤新平の反対により、後藤は立国憲議を却下した。 江藤が司法卿として転出し、伊地知正治が後任となると、左院は改めて府県の代表から成る「下議院ヲ設クルノ議」を正院に提出。正院が下院設立について細則を決めるよう促すと、宮島は議会の定数・場所・会期、議員資格・選挙法などをまとめ、「国会議院手続取調」として提出した。だが、後藤はまたしてもこれを黙殺したため、宮島らは参議・板垣退助に相談するが、板垣も消極的な対応に終始。翌年5月には大蔵省が地租改正について府県の地方官への説明会を設けたのを好機として、再び「国会院」設立のため奔走するが、井上馨の大蔵大輔辞任問題やその後の征韓論争で、議院設立問題は流れてしまった。これらの建議は、後に盛んとなった自由民権運動に先立つ議会開設運動として注目されるが、上記の経緯は後述の明治13年(1880年)の『国憲法編纂起原』で宮島自身によって回想されたものであり、その功績については粉飾が含まれている可能性もある。
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