福田学園理事長
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1983年に、埼玉純真女子短期大学の開学をめぐって、学園の理事のひとりであった次姉の福田純子と対立したことを契機に、福田敏南は、学園を相手どって理事長としての確認を求める訴えを起こし、最終的には1990年に福岡地方裁判所が理事長の地位を確認した。 以降1997年頃まで、理事会を開催せずに学園の運営にあたった。 この間、1987年からは、当時、学園傘下にあった埼玉県の私立東和大付属昌平高校(後の昌平中学・高等学校)において、教員や保護者の反発を受けながらも校長を交代させ、教員5人を懲戒解雇するなど、強い指導力を発揮した。 1987年には、大分県国見町にある造り酒屋の木造建築(通称「さんがいや」)を学園として買い取り、学生寮「濤音寮(とういんりょう)」としたが、その後ほとんど利用されなかった。 また、1995年に「学園の野外研修施設を造る」として岡山県倉敷市にある上水島という瀬戸内海の無人島を、学園の資金4億5千万円で購入したが、この一件について背任容疑で告発され、2000年に逮捕された。 1997年には、「東洋学研究所」を設けるとして、豊前市の小学校跡地を購入し、計画を陣頭指揮していたが、福田理事長の逮捕で計画は宙に浮いた。 2000年2月17日付で理事長を退任し、後任の理事長には長男の福田庸之助が就任した。
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