祇園・長須賀古墳群の特徴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 21:47 UTC 版)
「祇園・長須賀古墳群」の記事における「祇園・長須賀古墳群の特徴」の解説
祇園・長須賀古墳群は多くの古墳が木更津市街地にあって、早い時期から都市化の影響を強く受けたためにすでに消滅してしまった古墳も多いと推定され、残っている古墳も原型を留めていない。そのため古墳群の状況を把握するのは困難である。 祇園・長須賀古墳群は、三浦半島から房総半島へ向かう海のルートの房総側の窓口に位置しており、当時の交通の要衝を占めていたことから勢力を強めたと考えられる馬来田国造を葬ったものと考えられている。 祇園・長須賀古墳群で一番早い時期、5世紀の第二四半期に造られた高柳銚子塚古墳は当時の房総半島内最大級の古墳であり、祇園・長須賀古墳群を造営した首長の力が当初から強大であったことがわかる。しかしその後5世紀末から6世紀にかけて古墳の造営が止まる。これは隣接する内裏塚古墳群でも見られる現象であり、倭王武と考えられる雄略天皇没後のヤマト王権混乱の影響を受けたとの説がある。 6世紀半ばから7世紀初頭にかけて、祇園・長須賀古墳群では盛んに古墳が造営される。これは内裏塚古墳群や龍角寺古墳群など、房総各地の古墳群でも見られる現象である。これは丘陵地帯で各河川の流域が区切られたために地域独自の首長が生まれやすかったという房総半島の地理的な条件が影響したと考えられ、房総半島内の各首長は独自性を強く保ったまま畿内のヤマト王権との関係を深め、武蔵や上野などのようなある程度の広さを持つ地域を統合する首長が現れなかった。 この時期、古墳群内では金鈴塚古墳のような盟主墳の下に中型の前方後円墳、さらには小型の古墳が同一の時期に造営されたと考えられる。また祇園・長須賀古墳群の盟主墳の被葬者は、同時期に小櫃川中上流域の中小の古墳を造営していた首長の上にも立っていたと見られており、祇園・長須賀古墳群の頂点に君臨していたと考えられる馬来田国造は、小櫃川流域の中小首長を統制するようになったことが想定される。 また金鈴塚古墳などの祇園・長須賀古墳群の盟主墳は、古墳の規模や豊富な副葬品の内容から見て埼玉古墳群などの古墳と並び、関東地方でも有力な古墳であると評価できる。これは6世紀半ば以降のヤマト王権の権威強化とともに、ヤマト王権と結びついた祇園・長須賀古墳群を造営した首長の実力が強大化したものと考えられる。また金鈴塚古墳の石室や石棺に用いられた石材が、関東地方の他の有力首長の勢力範囲から持ち込まれたということから、祇園・長須賀古墳群を造営した首長は関東各地の有力首長との連携も図っていたことが想定される。こうした関東地方の有力首長同士の交流まで当時のヤマト王権が関与していたとは考えにくく、祇園・長須賀古墳群を造営した首長はヤマト王権内の地位を高めるばかりではなく、独自の動きも見せていた。 7世紀以降の祇園・長須賀古墳群については不明な点も多いが、関東地方の他の有力古墳群で見られるように、大型方墳の築造がなされたことは確実である。7世紀後半には祇園・長須賀古墳群近隣に上総大寺廃寺が造られ、古墳群を造営した首長との関連性が指摘されており、これは首長の権威の象徴が古墳から寺院へと移り変わったことを示している。
※この「祇園・長須賀古墳群の特徴」の解説は、「祇園・長須賀古墳群」の解説の一部です。
「祇園・長須賀古墳群の特徴」を含む「祇園・長須賀古墳群」の記事については、「祇園・長須賀古墳群」の概要を参照ください。
- 祇園・長須賀古墳群の特徴のページへのリンク