社人多数の追放処分
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杉本左近らの追放処分後まもなく、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門は反豊前派の中心と目される14名を郡上八幡に呼び寄せ、更に続いて60余名の社人も呼び寄せた。寺社奉行の根尾はまず14名に対して、かねてから言い渡してあるように吉田家支配を受け入れ、万事豊前の指示に従うようにとの文章に捺印するように命じたが、誰一人として従おうとしなかった。根尾は捺印を拒否した14名と60余名の社人を入牢させ、一昼夜全く飲み食いをさせずに置いた上で、郡上藩からの追放処分とした。その際に入牢時に取り上げた着替え、ももひき、蓑傘などの所持品に加え、持参してきた旅費まで没収した。冬の寒空の中、薄着で放り出された社人らを見た和良村中保(現郡上市八幡町美山)の庄屋が気の毒に思い、せめて蓑傘だけでも返してやってほしいと嘆願したが受け入れられなかった。この結果、石徹白の反豊前派の家はほとんど世帯主がいなくなってしまった。 宝暦5年(1755年)11月末、石徹白豊前の要請を受け、郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門は手代の片重半助、嵯峨山勘平と22名の足軽を石徹白に派遣した。そして先日追放した社人の家族を豊前宅の庭に集め、吉田家支配を受け入れ、万事豊前の指示に従うようにとの文章に捺印するように命じたが、誰一人として捺印しようとはしなかった。この様子を見た石徹白豊前が「この者どもは皆、白川殿白川殿と申し、吉田様の印判をしようとしませんので、そんなに白川が良いのならば、京都の白川では遠すぎますゆえ、飛騨の白川へ追放してください」と発言したのにまかせて、飛騨の白川村に追放すると申し渡された。突然の追放言い渡しに驚いた人々は、せめて暖かくなる春まで待って欲しいと訴えたが許されず、宝暦5年(1755年)11月末から宝暦5年12月21日(1756年1月22日)までの約3週間の間に、記録によって多少の差はあるが、宝暦8年(1758年)の箱訴状によれば96軒500名余りの人々が石徹白から文字通り着の身着のままで追放された。これは当時の石徹白全体の三分の二に相当すると推定されている。 なお、石徹白での騒動激化と同時期に郡上藩領では郡上一揆が起きており、やはり解決の方向性が見出せない中で混乱が長期化していた。石徹白騒動と郡上一揆は発生原因や経緯が異なる別個の事件であり、両者の事件当事者間ではっきりした連携がなされた形跡も見られない。しかし郡上藩側としては、石徹白騒動で行った500名以上の社人追放というきわめて強硬な処分は、一揆を続ける郡上藩領の農民への見せしめとする意図があった。
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