社交界へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 03:42 UTC 版)
「フランツ・ヴィンターハルター」の記事における「社交界へ」の解説
1828年、ヴィンターハルターはカールスルーエのバーデン大公レオポルト1世の妃ゾフィーの絵の師範になり、社交界に入った。レオポルト大公の支援により1832年から1834年までイタリアに旅行し、活躍の場を南ドイツの外に広げることになる。ヴィンターハルターはローマでルイ=レオポール・ロベール(Louis-Leopold Robert)の様式によるロマン主義的な風俗画を製作し、フランス学士院長オラース・ヴェルネ(Horace Vernet)の知遇を得た。カールスルーエに戻ると、レオポルト大公夫妻の肖像画を描き、大公の宮廷画家となった。 しかしヴィンターハルターはバーデンを離れ、イタリアで描いた風俗画『甘やかな安逸(Il dolce Farniente)』が1836年のサロンで注目されていたフランスへと移った。翌年製作の『デカメロン(Il Decameron)』も賞賛された。どちらもラファエロ様式の保守的な作品である。1838年、公女と並んで座るヴァーグラム公(Napoléon Alexandre Berthier)の肖像画をサロンに出品した。 また同年、ベルギー王妃ルイーズ=マリーとその息子ブラバント公の肖像を描き、またたく間に肖像画家としての地位を確固たるものとした。おそらくこの絵を通じてヴィンターハルターの名は、ベルギー王妃の母でもあるフランス王妃マリー・アメリー・ド・ブルボンの知るところとなったと考えられる。
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